つい先日、
- 電話対応が苦手
- 電話の着信音そのものが怖い
- 電話に拘束されることが嫌い
などの理由で仕事を辞めてしまう若者や、電話対応を他人に丸投げしてしまう若者が増えているというニュースを見かけた。とくに固定電話に対して強い恐怖感を抱いている若者が多いとニュースでは紹介されていた。
その若者たちは、電話よりもメール、チャット、LINEやSNSなどの通話以外のコミュニケーションに慣れ親しんできた世代であるために、電話嫌いや電話恐怖症になっているとのことだ。
今回は、そんな電話への苦手意識が強い若者を見て私が感じたことを素直に語ろうと思う。
電話だけでなく他人とのコミュニケーションを過剰に怖がりすぎているように見える
私が思うに電話嫌いな若者は、電話に限らず他人とコミュニケーションをすることを過剰に怖がっているかのように感じる節があった。
いわゆる、自称コミュ障の人のように自分はコミュニケーションが苦手であり、そのせいで苦労している、うまく他人と馴染めずにストレスを感じている。
そして、相手の顔や表情といった円滑なコミュニケーションに役立つ情報が手に入らない電話上の会話においては、より強くストレスを感じてしまい嫌な記憶ばかりが残ってしまう。その結果、電話で話すことに対して強い不安や恐怖を感じるようになったのでは?…と感じた
もちろん、誰だって初対面の相手と話すときに多かれ少なかれ不安を感じることはあるだろう。しかし、その緊張というものは実は不安そのものを大げさに捉えているのではないかと思う。
つまり「この電話対応ができなければ、自分は職場で居場所を失ってしまう。仕事についていけず社会不適合者となって、一生に底辺な生活を送る…そんな暗い未来が待っている。」というように、物事を過剰に悪く見てしまう認知の癖が、電話への過度な苦手意識を生んでいるように感じた。
「自分の時間を奪うな!」という被害者意識の強さにモヤモヤする
また、電話嫌いがエスカレートして「今の時代、電話は自分の時間を奪う非効率的なツールだ!」と、かなり荒っぽい言い方で、電話そのものを非難している考えを持っている若者がいたのも印象的だった。
まるで「電話をかけてくる人を自分の時間を奪うような泥棒であり、自分はそんな時間泥棒の被害者だ!」と言わんばかりの姿勢で電話をしてくる人や電話が必要な組織を強く非難する。その強い被害者意識に対して、私はモヤモヤとした気持ちを抑えられなかった。
もちろん、時間が奪われるという意見自体には頷けるものはあるし、メールやチャットと比較してある拘束度合いが強いのは事実だ。
しかし「私の時間が奪うな!」という強い姿勢を臆面もなく出してしまう時点で、あまり一緒に仕事をしたくない人物だと判断してしまう。
電話以外の場面でも何かと被害者面をする&他人を加害者に仕立てあげては、言いがかりに近い非難をふっかけては他人を振り回すような人に思えてしまい、どうしても良い印象を持ちづらい。他責思考の人間に見えてしまうので、一緒に仕事をしたくない人物だと判断してしまうのだ。
「私の時間を奪うな!」という考え方に感じる”さもしさ”
また「私の時間を奪うな!」という考え方自体が、なんだかさもしくて精神的な余裕のない考え方に見えてならなかった。
もちろん、社会で他人と関わって生きていく以上は自分の時間を相手に差し出したり、逆に自分が相手の時間を頂戴して関係を持つ場面が出てくるのは至って自然なことだ。
でも、大抵の人はその時間のやりとりや取引に対して「私の時間を奪うな!」という姿勢を見せることはまずない。もちろん「時間がもったいない」と思うことこそあるが、それを口や態度に出せば他人から嫌われたり、品性や人間性を疑われて孤立するリスクがあるからこそ、言わないようにしているのだ。
また、もし仮に「自分の時間を奪うな!」と言ってしまった以上は、自分が電話も含めて相手の時間を奪うような真似をするのはスジが通らないだろう。
「自分の時間を奪われるのは嫌なのに、他人の時間を平気で奪うのは都合が良すぎるぞ!」と矛盾を指摘される可能性がある。だから、多くの人は「自分の時間を奪うな!」とは言わないのだ。
「相手の方が自分に合わせるべきだ」という考えでは働きづらいし、甘えてると思われるも無理はない
電話嫌いな人の中には、自分が電話対応をする職場に合わせるのではなく、相手や環境の方が自分に合わせるべきだ、という自己中心的な考え方を持っている人が目立った。
そして「それってただの自己チューなだけでは?」と的確なツッコミを入れられないように「電話をしてくる人は他人の時間を奪ってくる人だ」と強い言葉で自分の考えと立場を守っているように見えた。
私が思うに、こうした「相手の方が自分に合わせるべきだ」という他人への歩み寄りや妥協を拒む姿勢では、社会の中で生きづらさを抱えてしまうのも無理はないと感じる。
また、他人と歩み寄る姿勢を若いうちから放棄して、それっぽい理屈をこねて自己正当化を図る姿に対しては「それは甘えているだけでは?」という疑問や批判の声が出てくるもの、致し方のないことだと感じてならなかった。
電話嫌いで悩む人同士で共感することの功罪
最後に、電話嫌いな人同士でSNSやYouTubeで繋がることで、同じ悩みを持つもの同士で共感や情報共有できるのは、現代ならではの利点であろう。
しかし、同じ悩みを持つもの同士で深く共感しすぎた結果、自分とは異なる価値観や考え、働き方を持っている人に対してやたら攻撃的・排他的な態度をとるようになってしまったり、思考が先鋭化してしまい余計に社会と折り合うことが難しくなる可能性があると感じる。
また、深く共感すればするほど、電話嫌いを克服して社会と折り合って生きていくという考えから遠のいてしまう。つまり、自分の苦手を克服すること、自分が成長していくこと放棄してしまう結果につながり、「他人や周囲が成長できない自分に合わせるようにすべきだ」という考え方を強めてしまうのではないかと不安を感じた。