いわゆるコミュニケーションが苦手なコミュ障な人と関わったり、コミュ障を名乗っているyoutuberの動画を見聞きしていると、何か食べながら話しているかのようにくちゃくちゃ、あるいはもごもごとした音が混じっていることが目立つ。
まるでクチャラーのように、よだれや唾液の水音(リップノイズと呼ぶらしい)を何度を聞くので、仮に相手が頑張って喋ってたとしても話が頭に入ってこない。それどころか、行儀の悪い話し方のように見えてきて、むしろストレスが溜まってしまうことがあった。
今回は「コミュ障の人のぺちゃくちゃ音がなぜ出てしまうのか」について、個人的な考察をまとめてみた。
在宅勤務の導入により電話やマイクで自分の声がイヤホンでダイレクトに相手に伝わる頻度が増えるかもしれない世の中だからこそ、参考になる部分があれば幸いである。
コミュ障の喋り方にぺちゃくちゃ音が混ざる理由
普段から会話していないので口周りの筋肉が衰えている
ま、コミュ障の人は普段から人と会話をする機会が少ない。コミュ障を自覚しているからこそ、人が集まる場に積極的に行こうともしないし、メールやチャットといった喋らなくても済むツールでコミュニケーションを済ませたがる傾向がある。
しかし、このような生活を続けていれば次第に「喋る」ときに使う筋肉・神経が衰えてしまっても無理はない。老化のせいで口周りを含め全身の筋肉が衰えているのならまだしも、まだまだ働き盛りの若い人でも、普段会話をする機会が減れば口周りの筋肉・神経が衰える。その結果、くちゃくちゃ音が混ざった話し方になってしまうのだ。
なお、口周りだけでなく顔の筋肉(表情筋)も衰えてしまうために、くちゃくちゃ音以外にも表情の不自然さからくる違和感も相手に与えてしまうのが、コミュ障の人にはよくある。
コミュニケーション能力をただ話すだけの能力として捉えるのではなく、話し方やその時の自分の顔、態度、表情、発する音そのものなど総合的に見ることが、コミュ障の脱却に欠かせないと私は考えている。
声の発し方、喋り方について指摘を受ける機会がそもそも少ない
上でも触れたがそもそも他人と会話する場面がないために「くちゃくちゃ音のある話し方になっていますよ」と指摘されることも無い。
自分で自分の喋り方を客観的に評価される場面がないことは、コミュ障の人からすれば快適かもしれないが、一方で自分の話し方に問題点が誰にも指摘されないまま放置され続けるという怖さもある。
また、話し方の指摘自体、受験や就職活動における面接指導であったり、接客や電話対応の指導、場合によっては話す事そのものに関する商売(声優、ニュースキャスター、アナウンサーなど)といった場面・仕事に就くのであれば避けて通れない。
しかし、そもそも人と関わる事を苦手とするコミュ障の人は、そういった場面・仕事を避けたがる。つまり、話し方の指導をあまり受けないまま、社会に出ていく可能性が高い存在だといえる。
小声で話す習慣のせいで滑舌が改善されない
コミュ障の人が話すときに、とりわけ口周りに注目していると、小声&口周りの筋肉の動きが乏しい傾向がある。
聞きとりやすく、滑舌がよく、好印象を与えるため話し方とは真逆であるために、いつまでたっても滑舌が改善されず、水音の混ざった話し方になるのだ分析している。
とくに、女性の場合は大きな声で話す事そのものが、下品だとかはしたないものとみなされやすいせいか、男性と比較すると小声で話してもそこまで問題視されない傾向がある。
しかし、問題視されないからといって必ずしもその話し方のままで問題がないというわけではない。むしろ、指摘されにくい状況であるからこそ、自分の話し方にくちゃくちゃ音が入っていないか意識する必要性が大いにあるだろう。
誤解を恐れずに言えばくちゃくちゃ音は純粋に汚く不快な音である。クチャラーが行儀の悪い行為として問題視されるように「女性なのにくちゃくちゃ音のある話し方をする人」とみなされることのリスクを考えれば、改善しないという選択はないだろう。(もちろん男性も同様である)
大人のコミュ障の場合、ぺちゃくちゃ音を指摘するハードルは高くなる
最後に、大人のコミュ障の場合だと「ぺちゃくちゃ音のある話し方はよくないから直しなさい」と指摘することに、一種の抵抗があるように感じる。
この抵抗感を私なりに分析してみるとすれば、
- いい年した大人なのに、子供のような舌足らずな感じで話す様に呆れを感じている
- くちゃくちゃ音の指摘をすれば『あなたの話し方には幼稚な部分がある』と解釈されて、相手を怒らしてしまう恐れがある
というものが原因だと見ている。
いくら指導が必要とはいえ、いい大人に幼稚さを指摘することはリスクが高い。とくに、プライドが高い相手であれば、良かれと思った指摘しても、確実に良い結果になる保証は無い。
そのほかにも、普通にくちゃくちゃ音がなく話せる人からすれば「この程度の常識的で当たり前のことをわざわざ指摘をしなければいけないのか…」という呆れや情けなさに近い感情が、指摘へのハードルを高くしていると考えられる。