かつて意識高い系の方々と関わって来た時の話で恐縮だが、彼らと会話していると何かと身内を褒める癖があった。
ただしその実態はというと、なんとなくわざとらしいというか、誰にでも行ってそうな類の定型文を繰り返していると表現するのがふさわしいぐらいに、たいへん雑な褒め方だと私は感じた。
もちろんそのほめ方でも大変喜んでいた意識の高い方々がいたので、人によっては効果のある褒め方なのだろうと思う。しかし、どうも私からすれば「褒めているというよりはおだてている」「褒め言葉にめっぽう弱くてチョロそうな人を気持ちよくさせることに特化した褒め方」と感じてならなかった。職業差別する意図はないが、どことなく水商売かノルマ営業で用いるトーク術かとすら感じるものであった。
今回はそんな私のねじ曲がった性根がもとになった経験をもとに、褒めるのが下手な人について、個人的な見解を述べていきたいと思う。
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褒めるのが下手な人にあること
意味もなく大げさな表現を使いたがる
- 「君は天才だね!」「才能があるから○○しなきゃ損だよ!」のような、相手の秘めたる素質や可能性をようなくすぐるような言葉回しをする。
- 「君の良さがわからない人の方がおかしいよ!」のように、褒める時に仮想敵を意識した言い方をする。
- 「絶対成功する!」「最高の結果になる!」など、現実離れしたポジティブ思考の局地と思えるような発言。
など、とにかく大げさな表現が目立つ。人によっては「小馬鹿にしているのか?」とすら感じさせるような言葉を堂々と使ってしまうところに、違和感を覚えることが多々あった。
またこれは私の憶測になるが、褒める行為そのもので自分自身が気持ちよくなりたいという思惑がある。つまり、相手を評価するように見えて実態は自己満足のために褒めているのではないかということだ。
自分で自分を高揚させるために他人を利用しているように見えてならない…これこそが、意識高い系の方々に関わったことがある人なら、うっすらとでも感じる違和感の一種だと私は考えている。
語彙力がなく褒める時のセリフがパターン化
ちなみにだが、大げさな褒め言葉以外には「すごい」がほとんどであった。
すごい以外の褒め言葉を知らないのかとすら思えてくるようなまでに、ただただ「すごい」を繰り返す。もうここまで来ると「すごい」は単なる感嘆詞or感動詞の一種と考えたほうがいいかもしれない。
ちなみに、それ以外にも「勉強になる」「見習います」というような、どこかで見聞きしたような言葉ばかり。それも誰にでも言えばそれなりに通用してしまうような言葉をただ繰り返すかのようなものであった。
もちろん、褒める相手のことをしっかり見ているとは思うが、にしてはあまりにも誰にでも使えてしまうコピペのような褒め方をしているのは、見ていて(笑いを抑えるので)苦しかった。
ごく当たり前のこと、とくに褒めるべき必要性がないものまで過剰に褒める
世間一般から見れば当たり前の事(例「遅刻や忘れ物をしない」「謝るべき場面でちゃんと謝る」など)をしている人に対して、わざとらしいぐらいに褒める。
それも過度に持ち上げるような褒め方をしてしまうところが、どことなく新興宗教やマルチ商法等で見られるコミュニケーションの作法のように見えてならない。
場合によっては「生きてるだけで偉い!」というような、間に受けてたら脳がバグりそうな褒め方をする傾向もあった。
もちろん、世間一般(特に社会生活)における当たり前の約束や取り決めをちゃんと実行できることは素晴らしい。しかし、その事をとりわけ大げさに褒めるのは、捻れくた意見で恐縮だが相手を過剰に幼い存在(=精神年齢が幼稚)として評価しているとも受けたられかねない。なので、褒め方としてはふさわしくないと私は考えている。
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褒め方にもコミュ力が問われる
最後に、褒め方というのは叱り方と比べて周囲の人から指摘なり、自分で改善しようという意識がしにくいのが特徴的である。
叱り方に関しては各種ハラスメント対策であったり、効果的な子育てor新人指導など普通に人生を送っている中で考えさせられることが多い。また、自分自身が叱られた経験を通してきた中で「この叱り方は他人にやらないようにしよう」という類の考えをすることは珍しくない。
しかし、褒め方についてはそもそも褒めている相手を疑うとか、褒め言葉を間にうけない…というようなひねくれた一歩引いた視点をもつことは少ないし、仮にそんな視点を持つような真似をすれば自分の人間性を疑われる可能性がある。
理不尽に叱ってくる人を憎悪するのと比較して、自分を高く評価している人に懐疑の目を向けることは、人によっては強い精神的苦痛を伴うものである。
そのため、褒めることは叱られること以上に振り返りがされにくい。結果、何かズレている褒め方がそのままズレが修正されず放置されているのではないだろうか。