親ガチャで「当たり」だった身として思うことを語る

社会・国際
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先日話題になった「親ガチャ」というワードだが、おもにネット&リアルでは親ガチャで「ハズレ」だった人の不満や鬱憤の声が多く見かけた。

逆に「当たり」だった人の声はあまり見当たらない…というか、言いたくても言えばバッシングされるような雰囲気が漂っており、沈黙を貫いているという状態ではないかと私は思った。

いきなりで恐縮だが、私はどちらかといえば親ガチャで言えば「当たり」の身であると自覚しているが今回はそれを自慢するのではなく、当たりだった身だからこそ感じたことを赤裸々に語ろうと思う。

 

迂闊に家族や家柄のことについて語らない方がいい時代になったと感じた

野球、政治、宗教の話は高確率で揉める三大タブー話題である…そんな話は社会人であれば、どこかしらで見聞きしたことがあるだろう。

今回は、そのタブーの話題にとうとう家族や家柄といった話題も加わってしまったのだろうか…と、親ガチャ論争を見て感じてならなかった。

ただ親の話と、野球、政治、宗教と違うのは、この3つは自分の意思で自由に何を支持するかしないかを決められる。当然ながら、親のことについては自分の意思でどうこうできるものではない。

子は親を、(出生前診断のようなケースは除いて)親は子を選べない以上、今の自分にできるのは親の話をするかしないかを選ぶこと。

もっと言えば、親の話をしても面倒事にならない相手かどうかを見定める眼力がこれからの時代必要になるのではないか…と、我ながら考えすぎかもしれないが率直に感じた。

 

 

仮に親ガチャに外れたとしてもそれを盾にしない行為にこそ気品を感じる

もちろん、親ガチャに外れた人を全てダメというつもりはないが、仮に外れたとしてもその境遇に対して依存もせず甘えもせず、むしろ外れたことを盾にしない姿勢を持てる人は、人として素直に気品があると感じる。

ネット上を見ていると親ガチャでハズレを引いたと主張する人の中には、自分が苦しい状況に置かれていることを親ガチャに外れたからだと主張して自己肯定している姿が目立ったが、そういう自己憐憫に浸る行為自体は、私個人としては「いい年した大人なんだから、もうちょっと大人になろうよ」と思った。(もちろん思うだけで、そんなこと口にはしないが)

まぁ、「大人になろう」というのはちょっと残酷かもしれない。ただ、あえて厳しいことをいう大人がハラスメント加害者だとみなされてしまう風潮が強まった昨今では、一度精神的に腐ってしまえば、その後自分の尻を叩くような大人はなかなか現れず、ますます腐ってしまうという世の中だとも感じている。

厳しいことを言う人が減ったので、生きづらさを感じている人には案外優しい世界かもしれない。しかし、実態は一度精神的に腐った人は抱えた人は本人が危機感を真剣に持たない限りは、ずっと放置され腐り続ける恐れがある…という残酷な世の中でもあるのだ。

 

 

普通に努力出来るだけで意図せず誰かの劣等感を刺激していることを改めて自覚した

親ガチャ論争では「自分が努力できているのは親(の資産や環境)のおかげだ」という具合に、努力できることについて問題提起している人が目立った。

この光景を見て、過去に書いた記事でも触れたが、普通に努力できてしまう人は、当人にその自覚がなくとも努力できない人、あるいは努力したくてもできない状況にある人の劣等感を刺激しているのだなぁと改めて感じた。

努力を見せたくないと感じる理由と背景について語る
私自身比較的努力家な方だと自負しているが、一方で努力を人に見せびらかすような真似はまずしない。 といっても、中学受験のために学習塾に通っていた頃は、10代で始めて自分の人生を大きく左右する「受験」という一大イベントに取り組む緊張感もあ...

 

もちろん、劣等感を与えていることを知ったからと言って、努力を控えるべきとかノブレスオブリージュをするべきだとは思わない。

ただ、意図せず他人に劣等感を抱かせてトラブルを引き起こす可能性があるからこそ、努力してもいい状況や環境を見つけるのがシビアながらも大事だと感じた。

まぁ、こういう行為は「住み分け」と比較的柔らかく表現できるし、「分断」と重々しくも表現できることなので、自分の中だけで考えて奥にとどめておき、世間に向けて実名顔出しで堂々と発表するものではないとは思うが。

 

最後に

最後に余談だが、私がかつて小学生の頃に「自分の家族について」というテーマの作文を書き、みんなの前で発表する…という授業があった。(しかも授業参観の中でだ。)

ただ、この授業は私が教育学部の大学生になった頃に、当時受けていた講義にて「各家庭環境の差に配慮する必要性がある」という具合の理由で、別のテーマ(例えば「将来の夢」「自分の好きなこと」「学校での思い出」など)に取り替えられているケースが増えているいう話を聞いた。

 

私が小学生だった頃はまだバブルの余韻が残る時代で、比較的おおらかでまだ豊かだった時代だったと思う。

しかし、そこから10年経って大学生になる頃にはバブルの余韻はもはや過去の出来事。虐待、片親家庭、引きこもりや不登校、未成年の犯罪など、家庭にまつわる問題がメディアなどで取り上げられる時代になった。

こういう家庭(というか子供に関すること)を取り巻く様々な移り変わりによって、家庭に関する話題のタブー意識は今に始まった事ではなく、結構前から出来上がっていたのではないか…と作文のテーマの選ばれ方の移り変わりから推察する次第である。