親ガチャブームの影に感じる優生思想の静かな浸透について語る

社会・国際
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私は親ガチャという言葉や概念は正直言って肯定も支持もしたくないのが本音である。

前に書いた記事「親ガチャで「当たり」だった身として思うことを語る」でも触れたが、肯定心しないのは別に私が「当たり」の家柄であるからという事ではない。

ストレートに言えば「親ガチャの肯定・支持=優勢思想の肯定・支持」という図式が脳裏にぼんやりとあるからこそ、親ガチャブームに対してあまり良い印象を持てないのだ。今回はこのことについて語ろうと思う。

 

親ガチャブームの影に感じる優生思想

私は親ガチャという言葉のブームには、ひっそりとだが優生思想に近い考えが浸透しているのではないか…と感じる。

裕福な家系に生まれれば価値がある人間。そうでなければ無価値な人間、生きる意味がない人間…という優生思想を肯定するかのような、そんな思想が垣間見える。

親ガチャのような概念が広く浸透すればするほど、例えば命の選別のような極端な考えに走りやしないだろうかという不安があるからこそ、私はどうも親ガチャという概念を肯定できないでいる。

 

「才能」のような先天的な能力に対する盛り上がりと親ガチャ

親ガチャの話を切っても切れないのが「才能」に関する話題だと思う。

遺伝的、経済的、社会資本的に恵まれた家庭に生まれた子供は、そうでない子供と比較して勉強、スポーツ、仕事、芸術などあらゆる分野で成功する才能を持っている可能性がある。

もっと言えば、そういった成功を手にするために努力をしっかり成し遂げる才能(つまり努力の才能)がある…という類の話は親ガチャが話題になった時に、一緒に話題になった。

また、少し話が逸れるがどうスマホが普及しだしてyoutuberのようにネット上で一芸を披露して高い収入や社会的評価を得る人が次々と出てきだした頃から、「あたなには秘められた才能がある。だからその才能を強みに変えて社会的な成功を手に入れましょう!」というニュアンスの考えも増えていると私は個人的に感じている。

「好きを仕事にしよう」「これからは個の時代、個性を活かして輝こう」「既存の価値観にとらわれないあなたならではの価値観こそこれからの時代には重要」というような、意識高い系の人が好みそうなキラキラキャッチコピーの数々は、私個人的には才能をもてはやす風潮が後押しして出来たものだと分析している。

ただ、こういった才能をもてはやす考えもまた、私個人的には優勢思想につながるような危険性を感じてならない。

まるで才能がなければゴミ、一生底辺、惨め…というような極端な意見につながりかねないし、最悪の場合「才能がなければ生きる意味がない」というような破滅的な考えにつながるのではないかと危惧している自分がいる。

 

親ガチャを言い訳にする人について

私自身、いわゆる才能による影響が大きいとされているクリエイティブ職(芸術系に近い)にいるためか、才能の重要性だとか「才能ない人は無理だよね」的な話をよく見聞きする機会があるが、私個人の意見を言えば才能よりも努力や工夫で凡人でも十分渡り歩ける世界だと考えている・

しかし、こういう現実的な意見はやはりウケが悪い。人によってはこういう希望を感じさせることばよりも「才能が無いから無理」というような意見に背中を押されて、絶望を知って安心したい、「もう頑張らなくてもいいんだね。」となりたい人もいるのだろうと思う。

よく「親ガチャは努力できない人の言い訳だ」という意見が飛び交っていたが、なぜ言い訳にしたいかといえば、頑張りたくない人がもっともらしく自分の頑張りたくない精神を肯定してくれるのが「親ガチャ」という言葉だった。だから親ガチャはこれまで盛り上がったのだろうと思う。

なお個人的には、親ガチャを努力しない自分を肯定する意味合いでつかている人は、優勢思想を後押しするような姿勢は無いと考えている。

しかし、そういう白けた空気感はその気がなくとも他人に影響を与えてしまう。つまり、親から子へとつながっていくような状況が出てきてしまうのではないか…という疑念は拭えない。

 

最後に

もちろん、才能どうこうで人生が一発逆転するケースは稀だし、才能を持っているからといってあぐらをかいていれば同業者との競争に敗れることも十分にある。

また才能があっても、それに努力で追いつくような凡人も普通にいるし、努力そのものの可能性も捨てたものではない。

しかし、こう言う泥臭いお話はネット上では非常にウケが悪いし拡散もされにくい。

ネット上で受けやすいのは現実離れした極論や暴論、ギャンブル性が高くて見聞きするだけで胸が高鳴るようなお話であるし、そういう話が数字になるとわかっているからこそ、親ガチャのような不穏なパワーワードが流行るのだろうという見方もできる。

私個人的には、親ガチャという言葉から学ぶべきことをあらかた学んだら、速やかに離れるのが賢明だと思う。