先行きが暗い世の中だからか、「生きててえらい」「働いててえらい」「学校行けてえらい!」というような考えやメッセージを目にする機会が増えていると思う…が、私はどうもこの手の優しい言葉が好きになれない。今回はこの理由について語ろうと思う。
なお記事の性質上、繊細な人の心に優しくない内容が多く含まれているので自己責任で読む・読まないを決めていただきたい。
自己憐憫の言葉のように見えて好きになれない
「生きててえらい」という類の言葉を自分に向けて言うことは、私個人の意見としては自己憐憫に浸っているように見えて、励まされるとかほっとするとかよりも、惨めに思えて自分で自分が情けなくなってくる感覚に襲われる。
もちろん、他の人が皆自己憐憫に浸っていると断定するつもりはないが、「自分で自分をかわいそうな存在」と思ってしまうことは、精神衛生上好ましくないように思えるからこそ、基本的に「生きててえらい」なんて言葉を軽々しく自分に向けて使うべきではないと考えている。
他人に対して言うのは、他人を下に見ている&自己満足しているような気がして嫌
他人に向けて言う場合にしても同様に良い印象を持てないというのが率直な意見である。
上手く言葉にするのが難しいが、どうも他人を必要以上に弱々しい存在だと決めつけている、憐れみの対象とみなしていて、そんなかわいそうな存在に対して優しく手を差し伸べる自分にどこか優越感や満足感を抱いている…と感じる部分があるから。
もちろんこれもまた他の人が皆このように見ていると断定するものではないが、私は他人に対してこのような言葉を発すること自体、非常に失礼なことであり他人を侮っていてリスペクトに欠く行為だと感じる部分があるからこそ、迂闊に「生きててえらい」みたいなことは言わないようにしている。
ハードルの低すぎる自己肯定をすることで、自分で自分をダメ人間にしてしまう懸念がある
「生きててえらい」「働いててえらい」という類の言葉は、自分に対しても他人に対しても励ます効果があるとは思うが、同時に「こんなハードルの低い事柄でも励まされたんだ!肯定された!承認された!」という満足感を得てしまい、精神的な甘えや怠けを肯定してしまうのではないか…という懸念がある。
私の感覚がネットでは受けの悪いシビアで現実寄りなことも影響していると思うが、この手のハードルの低い自己肯定の言葉な慣れてしまうと、ダメ人間になってしまう。しかもダメ人間な自分を肯定するだけでなく「生きてて働いているだけでえらいんだから」と考えてますます堕落してしまう。
そこで「さすがにここまで堕落してハードルを下げすぎるのは良くないな」と思えればいいのだが、「ここまで堕落しても意外と何とかなるんだから、もっと自分を甘やかして頑張らなくても大丈夫って自分にも他人にも言い聞かせよう」という思考になってしまうのではないかという懸念があるからこそ、迂闊に「生きててえらい」「働いててえらい」ということに抵抗があるのだ。
日本はセーフティネットが充実しているし、治安もいいし、餓えて死ぬようなことが非常に稀な国である。そんな人生簡単に詰まない日本において、堕落して即人生ゲームオーバーにならず、堕落による各種問題を抱えたまま延々と人生が続くことの恐ろしさについては考えておいて損はないと思う。
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「現実を突きつける正しくて救いのない言葉」よりも「嘘やごまかしに満ちた救われる言葉」の方が支持されるのが現在の状況なのか
最後に、「生きててえらい」「働いててえらい」という類の言葉は、私からすれば「現実を突きつける正しくて救いのない言葉」ではなく「嘘やごまかしに満ちた救われる言葉」なのだと思う。
もちろん、こういう救われた言葉を言う人にもそれなりの理由や使命感がきっとあるのだろうと思うし、厳しい現実を突きつけるだけの言葉が溢れる世の中はそれはそれでディストピアであろう。
ただ、個人的な意見としては救われる言葉を見るよりは、厳しい現実を突きつける言葉に対して早くから耐性を付けたほうが実益があると思う。
厳しいけどその分達成感や充足感があるし、何より「厳しい現実に立ち向かえる自分」である方が、「厳しい現実から目を背け甘い言葉にどっぷり浸かっている自分」よりも自信が持てるからだ。
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