何者かになりたい病が治っていった理由の考察

社会・国際
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この記事は「何者かになりたい病の怖さについて語る」の続編である。

かつて私が意識高い系の大学生だった頃は、明らかに何者かになりたい病にかかっていた。というか、意識高い系であることそのものが何者かになりたい病を発症していることの証明だったと思う。

ただ、いわゆる何者かになっている人と関わっていく過程で「何者かにならなきゃ…」という熱はなくなっていった。

今回はそのことについて語ろうと思う。

 

「何者かに見える人も案外普通なんだな」と思える経験を既にしていたこと

何者かになりたいと思っていた頃、いわゆるネット上で活動していて、本を何冊も出版していて、おまけにセミナーも何度も主催している人と1対1で直接会いにいくという、まさに意識高い系の学生そのものみたいな行動をよくしていた。

ただ、そのときは自分が何者かになっていると判断している相手に対して「あぁ、憧れの○○さんにあえてよかった!」という思いよりも「なんだ、○○さんも案外普通でどこにでもいる人なんだなぁ」という、落胆というか安堵というか、妙にほとぼりがさめて落ち着きを取り戻すかのような感覚を味わうことがあった。

また、この安堵に似た気持ちは(自慢を承知で言うが)私がかつて中高一貫の進学校に進学したときに感じた「あれ、進学校に入ってくる学生ってなんか当たり前のように勉強しているだけで、そこまで超人的な天才や秀才、フィクションの世界のなかで見かけるようなスーパーエリートのような人ばかりではないんだ」という感覚に非常に似ているような気がした。

社会に出る前に世間一般で言う何者かになっている人、あるいは何者かになれそうな素養がある人たちに囲まれた経験が進学校時代にあったからこそ、一時的に何者かになりたい病になっていたが、その熱が冷めるのも早かったのだろうと過去を振り返ってそう思うのである。

なお余談だが、進学校時代にいわゆるスポーツ強豪校の方と一緒に合同合宿をすることもあったが、その時もまた「身体能力こそ違うけど、練習内容は結構オーソドックスでほかの部と同じだなぁ…」と感じる経験があった。

この経験もまた、何者かになっている人を見て感じる憧憬の熱がすぐ冷めさせる原因の一つになっているのだと思う。

 

「この人は自己演出がうまいだけで、何者かに見えてしまっているだけなんだな」と感じたこと

何度か何者かになって活動している人を調べていくなかで「あ、この人は自分をよく見せるだけの自己演出術がすごいだけで、やっていることに実体がない見かけ倒しでは?」と感じることがあった。

要するに何者かに見えるその姿が、虚像であり実物を想像以上に盛っていることに気がついてしまった結果、何者かになりたいという気持ちが失せてしまった。

また、正直にいえば自分を過剰に盛ってまで人から憧れの目で見られることに抵抗があるし、そういうまやかしの自分を見せた結果、自分に対して目をキラキラさせて支持してくる人に対して「おいおい、そんな嘘の姿を間に受けてこの人は大丈夫か?」という気持ちが湧いてくるであろうこと容易に想像できてしまった。

誤解を恐れずに言えば、バカを騙していい評価を得ようとしている姿は私にとっては醜悪そのものであり、性根の部分が腐っていてひねくれている私であっても、さすがにバカを騙して何らかの評価や利益を得ることだけは人として超えてはいけない一線であると感じたので、次第に何者かになるどうこうに対する執着がなくなっていったのだと考えている。

 

実際に仕事で何者かになった人と話しててわかったこと

そんな何者かになりたいと憧れていた頃からもう10年ほど経って、今クリエイティブ系の仕事でい、実力、フォロワー数、人気と影響力のあるまさに何者かになった人と一緒に仕事をする機会があるが、その人が何者かになるまでの道のりには大きく分けて2つあると思う。

 

1つはやるべき努力をちゃんとやった結果として、何者かになった人である。要するに長年努力した結果として多くの人が憧れるような存在になった…という「まぁそりゃそうなるよね」という印象の強いタイプである。

このタイプの人は何者かになりたい病に今まさになっている人は憧れこそするが、基本的に地味な努力を長年継続するという面白味に欠けたやり方を継続することになるので憧れどまりになりやすい。

 

もう1つは、SNSや動画サイトでバズったり、TVなどの大手メディアで取り上げられた結果として運良く何者かになった人である。

この手の人は(もちろんある程度の実力はあるが)運のおかげで有名になったこともあるためか、何者かになりたい病になっている人が強く憧れたり真似をしたがるタイプの人である。

「めんどうな努力はしたくないが、人から憧れられる存在に手っ取り早くなりたい」という人間の業そのものを刺激するタイプの人といえよう。(まぁ、そんなうまい話がそう簡単に転がっていないのが世の常だとは思うのだが。)