HSP(繊細さん)や発達障害の一種であるADHD、コミュ障…のようなワードは、えてして社会で生きづらさを抱えている人の心に響くワードである。
しかし、これらのワードを使う人の中には、正式な診断(※ただしHSP・コミュ障は病院で診断できる概念ではない)をしておらず、ネットにある簡単なチェックリストで自己診断したり、youtubeやSNSの「ADHDあるある」みたいな投稿を見て「あ、自分もADHDだったんだ」と確信してしまっているケースが多い。
このようにしてHSP、ADHD、コミュ障を自称して、自分の人生で起きるイベント、背負うべき責任、やるべきことや守るべき約束に対して「自分HSPですから‥」と便利な免罪符を使いまくる人について思うことを率直に述べていこうと思う。
ネットで検索すれば頑張らない言い訳を簡単に探せてしまう誘惑が今の世の中には存在している
ゆとり・さとり世代以降の世代を今はZ世代と呼ぶらしく、彼らの大きな特徴はスマホネイティブ…つまり、物心ついた頃からネット環境が身近にありネット検索で簡単に数多の情報にアクセスできるということである。
まぁZ世代でなくとも、今の世の中は気になることはネットで検索するのが当たり前。それもグーグルやyahooのような検索エンジンに限らず、twitter、Instagram、youtubeなど各メデイアで何かを調べることが当たり前のようにできるようになっている。
しかし、そのことは決して良いことばかりではない。
自分が今直面している課題や超えるべき壁と向き合わなくていいような最もらしい言い訳すらも、検索すれば簡単に見つかってしまう。そういう誘惑が手元のスマホに存在している、地味ながら恐ろしい時代でもあるのだ。
人間誰しも頑張りたくない理由は探しているものであろう。
その理由をウェブサイト、SNS、動画メディアなどで「HSP、ADHD、コミュ障、この中からあなたが生きづらいと感じる理由を自由に選んでね」と優しく微笑みかけてくるような怖さがすぐそこにある時代に、生まれてこなくて心底良かったと思う。
私が学生時代にはそこまでネットが当たり前でなかったし、当然youtubeのような娯楽になるサイトもなかった。情報を入手できる場所・媒体がある程度限定されている時代を生きてこれたことは、そういうことを言う年齢ではないと思うが「昔のほうがよかった」とつい言いたくなる。
自分で自分を社会的なハンデのある存在だと思い込んで生きるのは惨め
誤解を恐れずにいえば、自分で自分を何らかのハンデがある状態だと思い込んだ状態で生きるのは、冷静に考えればもったいないというか、惨めというか、アホらしいというか…なんだか悲しい気分になるというのが率直な感想である。
とくに若いうちに「自分HSPなんで無理です」みたいに言い訳をして、非活動的に生きるのは年齢的にも肉体的にも若いのに、精神が老人そのものであり、他人事ながらたいへんもったいない生き方だなぁと思う。
本来なら肉体的には若くて体力もあるのに、ひっそり穏やかに暮らす…そういう時間がたまにあるのは別にかまわないし、そういう時間も人生においては大事だろう。
しかし、本当は若くて体力があるはずなのに、ずっとそんな自分で自分の可能性を意味もなく制限するような生活は、穏やかではあるが虚しさに苦しめられそうな気がして私は遠慮したいと強く思う。
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社会的なハンデがあると自称しても人生はそこでゴールしないし「一抜けた」にもならない
社会的なハンデがあると自称することは、ある一定の人にとっては一種の救いのように感じる要素があると思う。
ここでいう救いとは、つまらない人生というクソゲーからのゴール。リアルの人生ゲームから「自分は一抜けしてあがったぞ!」というときに感じる開放感のようなものだと私は考えている。
しかし、実際に自称したところで人生はそこで「はい!おしまい」とはならない。(そうなればどれだけ幸せか)
むしろ自称したとしても、そこが新たなスタートになる。ハンデを自称した上で、それでもなお不利な状況が依然と続くリアルの人生ゲームの盤上を歩んでいかなければならないのだ。
そのことにうすうす気が付いて腹を決めて自分の人生をちゃんとスタートさせたり、不利な状況のなかでなるべく有利になるように足掻ければいいのだが、大抵はまた何か別の社会的なハンデとして自称できるワードを探しては自称する…という行動を繰り返してしまうものである。
自分はうつ病だから頑張れない。自分は発達障害だから頑張れない。自分はコミュ障だから頑張れない。自分はアダルトチルドレンだから頑張れない。自分はHSPだから頑張れない…と頑張れない理由を延々と探しては自称し歳月を重ねる生き方をしていれば、そりゃ生きづらくもなるよなぁ…と思えてならない。