論破してくる人がうざいと思われてしまう理由を語る

人間関係・コミュニケーション
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某スカッとする番組の影響もあってか、論破する人や論破することそのものが日常的になっているように感じる今日この頃。

その番組でも論破してくる人というのは、大抵は悪役として登場している。もちろん、実生活でも論破しようとしてくる人は、まず好まれることはないだろう。

今回は、論破する人がウザがられてしまう理由について、個人的な見解を述べさせていただく。

 

論破してくる人がうざいと思われる理由

強い言葉を用いて他人を威圧しようとする乱暴さが怖い

論破してくる人は、言い方を変えれば強い言葉や態度によって他人を威圧しコントロールしようとしたがる、モラハラ気質な人と言える。

殴る、蹴る、ものを投げつけるといった直接的な暴力行為こそしないが、自分の意見を押し通したり、自分の思い通りに人を動かそうとするためなら、多少荒っぽい言動に出る。その点においては、暴力行為に訴え出る人と変わりはない。

また、他人に乱暴を働いている点に注目すれば、他人の意見や考え、社会的な立場や置かれた状況を尊重していないであろうことは容易に想像できるはずだ。

表面的には言葉を用いて他人と会話しているように見えるが、論破という目に見えにくい乱暴な言動により、他人の意見や状況を無視して臆面もなく威圧しているからこそ、ウザがられてしまうのだ。

それも、正論や一般論、抽象論のように反論するのが難しい論理で他人を黙らせ、自分の思うように動かそうとするとなれば、嫌悪感や苦手意識が募るのも無理はないだろう。

 

ただの屁理屈を押し付ける。破綻した論理を押し付ける。

正論や一般論ですらなく、ただの個人的な感想や自分に都合のよい意見、破綻している論理、飛躍している意見、全く無関係な主張などを押し付けてまで論破してくる人というのは、まともに対応するのがアホらしくなっても仕方がない。かと言って放置するのもよろしくない。

そのため、とりあえず場を収めるために、こっちが折れるほかなくなる。感じなくてもいい敗北感と徒労ばかりが残ってしまうので、好印象を持てないのは明白だろう。

 

小者臭がして見ていられない

強い言葉や正論、一般論で理論武装してくる人を見ていると、どこか自分らしさがないというか、自分が弱い存在であるという自覚があるからこそ、自分を大きく見せるために威力のある言葉を借りているように見えてしまう。

つまり、自分が小者であることを自覚しているからこそ、あえて他人を威圧できるようにパワーワードで己を包んでいるように見え、その人が哀れというか、痛々しいというか、見ているだけで残念な気持ちになってしまう。「弱い犬ほどよく吠える」という言葉にあるように、弱いのにキャンキャン褒めている犬を見ているような気持ちになるのだ。

もちろん、そんな気持ちにさせてくる人と付き合う義理はないし、関わっても利益があるようには感じにくい。プライベートでも、仕事でも、自分をやたら大きく見せたがる人(意識高い系とか)に付き合えば、肥大化した自己イメージを押し付けられて苦労するのが目に見えているので、自然と周囲から人がいなくなるのは、自然の摂理といえよう。

 

話をまとめる力がなく、ただその場をかき乱す

グループディスカッションや会議など、とにかく何らかのまとまった意見や妥協案、多くの人に納得していただけるような主張を出すことが求められる場面においては、論破して自分の意見の正しさを主張する人はウザがられる。

いい感じにまとまってきた妥協案に対してヤジを入れるかのごとく、論破という名の挑発や横槍を入れてくる。本人は対案を出すわけでもなく、ただ上がってきた意見にツッコミを入れるばかりで、せっかくまとまりかけていた案をひっくり返す。

もちろん、論破してくる人の意見に一理あることもあるが、意見の正しさや高潔さを主張することよりも、その場をまとめられる可能性が高く、より現実的な案を出して、議題なり仕事なりを前に進めていくことが求められている場面で論破してくれば、腹が立つのも無理はない。

論破する人に関わっていると、話も仕事も前に進まないし、会議の時間は伸びるしで、その場にいる人からめんどくさがられるのだ。

 

「自分の意見が絶対正しい!」と意地になって主張しているように見えて恥ずかしくなる

強い言葉を口にして論破合戦をふっかける人は、意地になって「自分の意見は絶対にただしんだから、黙って自分の言うことを聞くべきだ!」と強く主張しているように見えて、逆に聞いている方が恥ずかしさを感じることもあるだろう。

よく言えば、熱血漢。悪く言えばTPOをわきまえず、幼稚に自説を展開している痛い人に見えてしまう。共感性羞恥に悩まされる人もいるはずだ。

また、「自分の意見が正しい、素晴らしいんだ!」と強く主張することは、言い換えれば間接的に「あなたたちの意見は間違っている、劣っているんだ!」と主張しているのと同じ。つまり、論破することは他人否定して自分を持ち上げて目だとうする行為に、不快感を覚えてしまうのだ

もちろん、論理に対して納得できるものがあれば、論破してくる人の意見に賛同することもあるだろう。

しかし、大抵は拙い意見、理想論、正論、綺麗事、他人の意見の揚げ足取りといった、話の腰を折るようなものばかりだが、当の本人は自信満々に満足げに主張する。その姿が実に滑稽であると同時に、実際に関わるとなればめんどくさいことになるのが容易に想像できてしまうため、嫌われる率が高いのだ。

 

…と、いうことを述べて、ここでお開きにさせて頂く。