叱ってくれる人がいない状況が招く問題について語る

人間関係・コミュニケーション
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私自身、厳しい家庭で育ったいわゆる「いいところの子」である。

子供の頃から「俺ではなく僕か私と言いなさい」と口酸っぱく言われたり、お箸の持ち方やテーブルマナーについて叩き込まされたし、中学受験のために指導が厳しいと有名な学習塾にも通った。

無事に受験に成功してからは(暴力こそないが)怒鳴ったり詰められることが日常茶飯事な、ガチンコ体育会系の部活動(球技)に所属していた。

顧問の先生やコーチだけでなく、同じ部員同士でも厳しいアドバイスをすることがよくある、まさに体育会系気質と呼ぶにふさわしい人が集まる中で揉まれに揉まれまくった。

このように身近な人から叱られたり、注意されたり、指摘されたり…など、自分に厳しく接してくれる環境で育って来た経歴もあってか、叱ることをNGとする雰囲気があるコミュニティやハラスメントに過剰反応する世の中の流れに対して危機感を持っている。

率直に言えば、誰も叱ってくれない結果、表面的には優しい世界になる…が、一方で誰も叱ってくれないからこそ、例えば誰かが道を踏み外したとしてもその人を諌める人が出てこず、堕ちるところまで堕ちていくのではないか…と危惧している。

今回は、そんな叱ってくれる人がいない状況が招く問題について、いろいろ語ろうと思う

 

誰も叱ってくれない状況が招く問題

ざっと私が考えるだけでも、誰も叱ってくれない状況には以下のような問題があると私は見ている。

  • 堕落するとどこまでも堕落してしまう。しかも誰も正してくれない&自己責任で済まされる。
  • 馴れ合いが起きてしまう。しかも注意する人がいない(=自浄能力が無い)ので、馴れ合いに拍車がかかる。
  • (仕事なら)叱られ耐性、ストレス耐性のある人が重宝される。一方で、ハラスメント意識(=被害者意識)の強い人は敬遠されて、選べる仕事の選択肢が狭まる。
  • 叱られ耐性がないため些細な注意や指摘も自分への攻撃・加害・誹謗中傷と判断する極端な思考が培われる。そして、周囲からは面倒な人、取り扱い注意な人、些細なことで「訴訟するぞ」と脅してくるような危うい人と思われ敬遠される。結果、社会の中でまっとうな人から無視され孤立し、生きづらくなる。

などの問題が考えられる。

誰だって叱られることは苦手だろうし、できれば叱られなくても済む方法を模索するものだろう。

また、叱られるのが嫌だからこそ叱ることをNGとする意見や主張をして、自分の周りに優しい人(というか自分を甘やかす人)が集まりやすくするよう働きかけるのも理解できる。

しかし、そうして出来た人間関係がはたして本当に自分にいい影響のみをもたらすのか…については、かつて厳しい指導を受けて育ってきた私には純粋に疑問である。

 

現代は「叱ったら負け」の時代

ちょっと話は逸れるが、前職の社長の言葉で印象的だったのが「現代は叱ったら負け」というものである。

社長は年配の方であり、それこそ叱られたり怒号が飛ぶような職場で長年働いてきたと20代の頃の私によく話していた。そんな、ハラスメントの概念が定着する以前から働いてきた人だからこそ、「叱ったら負け」という言葉を聞いたときは、私は何か腑に落ちるものを強く感じた。

現代では職場で叱ればパワハラやセクハラ。学校・部活で叱れば体罰。家庭で叱れば虐待。友達を怒ればいじめ。夫婦・恋人で叱ればモラハラ・DV。

そのほかの人間関係でしかれば、やれ名誉毀損だの差別や偏見だの、誹謗中傷だの、SNSに投稿して炎上・拡散によるネガキャン実施…など、叱られるべくして叱られる方が有利になりすぎている節がある。

ついうっかり叱ろうものなら、叱った相手があらゆる手段を持ち出して、叱った人を悪者に仕立てあげてボコボコにするのが容易である。

そんなパワーバランスが叱られる人に偏っていることを私もうっすらと感じ取っていたからこそ、社長の「叱ったら負け」という言葉には、重みを感じたのだ。

 

…まぁ、各種ハラスメントなどの概念が浸透したことで助かった人がいるのは事実だし、乱暴な人が減ることそのものは否定はしない。

しかし、その結果として「困った人を叱るぐらいなら、無視してくのが賢い選択だ」と考えて実施してしまう人が増えることは、私はあまりよろしくないと感じている。

 

「叱ったら負け」の時代だからこそストレス耐性のある人が求められているという可能性

逆説的だが、叱らないほうが賢明だと考える人が多くなるにつれて、ゴリゴリの体育会系出身者のような、多少の叱責や厳しい指導に対してすぐに根を上げない。むしろ、それらは社会で生きていく中で当たり前のものだと考えている、タフな人が重宝されるのではないかと私は考えている。

言い方を悪くすれば、(自分が受けるハラスメントに限っては)ハラスメントをハラスメントと捉えない人。安心して厳しく接しても問題ないだけのストレス耐性がある人の方が、過剰に気を使わなくてもコミュニケーションができる。こういう人こそ、勉強でも、仕事でも、スポーツでも大きな成果をつかみやすいのではないかと私は考えている。

もちろん、自分のメンタルを大事にするのは結構。しかし、メンタルを大事にするためには、下手に被害者意識を募らせることよりは、多少の対人折衝なりストレス、理不尽なりですぐ根を上げない習慣を身に付ける。

 

つまり、我慢すべき場面で我慢ができる人間になるのが大事だと思う…というと、「我慢した結果メンタルをやんだらどうするんだ?」と言われそうなきもする。

しかし、まさにこういったい文句を付ける癖がもしついているのなら、それを改めることから重要だろう。そうすれば、他人からみて過剰に気を使わなくてもコミュニケーションができる人になれるのだ。

 

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