多様性は正直いらないと思う理由を語る

社会・国際
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「これからは多様性の時代」「多様性を大事にしよう」などの多様性を重要視する世の中になって久しい昨今。

正直なことを申し上げると(たいへん不道徳で社会的に正しくないが)、私はこの風潮がどうも好きになれない。多様性をいいことに、社会において迷惑になるようなことを行う方々までも「多様性が大事だから受け入れようね」という具合に、変な方向へと走りそうな風潮になりやしないかと心配している。

今回はそんな多様性に関する事柄について、個人的な見解を述べていこうと思う。(もちろん、多様性を主張する人の人格を否定したり攻撃するものではなく、あくまでも個人的な見解を述べているだけということは補足しておきたい。)

 

 

多様性があるのはいいけど、多様な人と関わりたいかは話は別

私がクリエイティブ職(芸術系の側面も強い)という仕事をしているためか、いわゆる常識が通用しない人と関わることがある。

すぐ音信不通になる、仮病かと思うぐらいに体調不良になる(でもSNSでは元気)、質問しても質問に答えていない回答が返ってきてコミュニケーションが成り立たない、そもそも日本語が読めているのかすら怪しい、精神的に幼すぎて仕事相手なのに親か何かと思われているフシがある…という具合に、まぁ普通に働いている中では到底お目にかかれないような方々が多く、対応に苦労した経験が多い。

そういう人と関わるたびに私はどれだけ常識的な人が頼もしく安心できるか、そして常識がどれだけありがたいか…と、強く思うのだ。

また自分でも言うのも変だが、自分もまた常識的な振る舞いを家庭や前職等で身につけていた。それにより、知らず知らずのうちに普通に常識的な振る舞いができるということで、関わる人から良くしてもらっていたか…と、常識の恩恵をいかに受けていたかを痛感することがある。

こうした経験のせいか、多様な人がいるのは結構だが、その多様な人と関わりたいかどうかについて別である…という考えがあるのを感じている。

 

どうせ関わるのなら、めんどくさくない多様な人のほうが安心できる

どうも多様性が叫ばれるシーンというのは「多様な人を受け入れよう」とか「多様な人と関わろう」と、交流を求められるものが多い。

そういう交流をそれとなく要求されるような態度に対しては、私はどうも気分が乗らない。「まぁ多様な人がいるのはいいけど、最低限の常識的な振る舞いができるとか、メンタルコントロール技術に問題がないことが前提だよね」と思ってしまう。

これは私の観測範囲の話で恐縮だが、多様性を声高に叫ぶ人や集団は、どうも人とうまくコミュニケーションをとるのを苦手としている傾向があるように思える。

具体的に言えば、他人と協力する姿勢が乏しく、妥協や折り合いなど交渉をする能力が見られず、どうも一方的に「自分たちのマイノリティのことを受け入れるべきだ」という強行的な姿勢で多様性を強いてくるような危うい勢いがある。

シンプルに申し上げれば、関わるとめんどくさそうなことになりそうだと感じる相手である。だからこそ「多様性は大事だが、できればめんどくさくない人がいい」と考えてしまうのだ。

 

 

学級崩壊と多様性への苦手意識

最後に自分語りになるが、私が多様性に否定的なのは小学生の頃に隣のクラスで学級崩壊が起きていた出来事が影響していると見ている。

当時私が通っていた学校は普通の公立校。お世辞にも行儀が良い子ばかりではなく、いじめや軽めの授業妨害、場合によっては万引きや他校とのトラブルなど、問題行動を起こしては先生を困らせていることが多かった。

そんな中、ある日突然私と同学年で且つ隣のクラスで学級崩壊が起こった。授業中に他のクラスに顔を出す、当時流行ってた携帯ゲーム機の音が授業中に聴こえてくる、カードゲームで遊ぶ声がする…というような迷惑行為で他のクラスの授業にまで迷惑をかけることになった。

その後、学級崩壊を起こした先生は退職&後任に体育会系の先生が来て普通に授業ができるようになった。しかし、学級崩壊の影響で授業そのものについていけなくなり勉強からリタイアした人や、遅れを取り戻すべく個人的に家庭教師を頼むという出費をする羽目になった人もいた。

 

…話が逸れているような気がするが、こうした経験を通して「多様な人間がいていいとは思うが、多様性に味をしめて他の人を困らせるような多様性は御免である」という考えが、私の中にはある。

就活生に向けて「(最低限の礼儀、ルール、常識、コミュ力、清潔感、就活における取り決め諸々を守った上で)個性を発揮できる人がいい」と企業側が情報発信するのと同じように、ちゃんと礼儀、ルールを守り、当たり前だが反社会的な姿勢を見せないような多様性であれば「いらない」とは言わない。

ダメな部分の裾野が広い多様性は、日々まっとうに生きている人にとっては、メリットを見つけるほうが難しい。普通に学校に通い、普通に学んでいる人の学ぶ権利を妨害するようなことがないような、まっとうな社会性のある多様性なら、おそらくスムーズに受け入れられるだろう。