自称hspの人の被害者意識の危うさについて語る

HSP
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自分で自分を繊細さん(=HSP)と名乗る方々を見ていて感じるのは、他責思考がやたらめったら強い事。つまり、被害者意識が強いということだ。

社会が悪い、人間関係が悪い、環境や運が悪い…という、露骨に悪意を自分以外の何かにむき出すものに限らず、「心理学的、脳科学的に、本能的に…という理由だから自分は悪くないと」、もっともらしい権威付けられた理由を探しては、自分の責任を回避しようとする…そういう行動が多く見られる。

そして、こうした他責の考え方が染み付いている事こそが、自分で自分を生きづらい状態に追い込んでいるのではないかと思えてならない。

今回は自称hspと被害者意識の強さについて、個人的な見解を述べていく。

 

繊細過ぎてあらゆる事に悪意や敵意を見出し、攻撃的な姿勢を取るから生きづらくなるのでは?

自称HSPの人は、私個人的な意見になるが、繊細過ぎるがゆえにあらゆる物事に対して存在しないはずの敵意や悪意があると思い込む。

そして、「自分は何らかの攻撃の対象になっている=正当防衛しても問題ない」と考えて、攻撃的な態度を取っていると思われる事が多々ある。いわゆるこれは「繊細チンピラ」の代表的な例であろう。

また厄介なのは、自称HSPの人は「自分は被害者であり、攻撃的な態度を見せるのは何ら問題はない」と思っていることである。

つまり、自分が些細なことで不機嫌になっており、(結果として)他人に迷惑をかけているだけの困った人そのものである…ということにまで考えが及びにくいのだ。お互い様の精神は一体どこにあるのだろうか。

 

うっかり自分が他人に迷惑を与えている可能性を考慮できず、常に「自分=弱者」のポジションを崩さない

些細なことで不機嫌になったりメンタルが落ちたり、心が傷ついてしまうような人と関わるのは非常に疲れる…が、その疲れさせている張本人たる自称HSPの人が「自分は傷付けられた!」と感じている。

つまり、「自分葉何らかの被害を受けて弱っている存在である」という認識のため、関わる方からすれば「実は繊細すぎるあなたのせいで、私たちは困っているんですよ」とは、なかなか主張しにくいものである。

もし主張しようものなら、かえって相手を傷つけることになる。もちろん、放置していても気苦労が綺麗さっぱり無くなるものではないので、非常にめんどくさい関係になるのだ。

嫌な言い方になるが、自称HSPの人は人間関係の中で弱者のポジションに居座りつづけることで、承認欲求なり愛情なり、場合によっては物理的・経済的な恩恵を受けようとするような存在。

つまり、弱者であることを盾にして他人を振り回しがちな存在なのである。

若干話が逸れるかもしれないが、一言で言えば、ただあやしてもらいたい赤ちゃん人間といってもいいし、精神年齢が低いとも言える。そして、その精神年齢の低さこそが「自分はか弱く傷つきやすい存在だから配慮してもらえる」という思考を生み出しているのではないかと考えている。

 

 

被害者意識の強い人同士が「HSPあるある」で集まって増長していき、社会に溶け込むのが余計に難しくなる

ネット上では「HSPあるある」という科学的な根拠のかけらもない、個人的な体験談に共感の声が集まっていることが多い…が、私はこれは非常に危ないと思っている。

なんでもかんでもHSPにひもづけられてしまう危うさもそうだが、なにより自称HSP同士で意気投合して強い結束が生まれた結果、HSPではない人に対する耐性が下がったり、自称HSP同士で思想先鋭化させて、余計に社会の中で生きづらさを増してしまう。

いわゆる「エコーチェンバー効果」や「集団心理」が発生してしまうのではないか…という懸念があるのだ。

 

 

自称HSPの人に優しいけど、結果として生きづらさを助長させる人の功罪

最後にネットや書籍では、HSPな人にに気持ち悪いぐらいまでに優しく寄り添う言葉(例「あなたは悪くない」「失敗してもえらい」…など)がよく載っている。

が、私はこうした優しい言葉は、心が弱っている人の自立心を腐らすと同時に、依存心を強めるような危うい言葉であると感じている。

もっと言えば「あなたは悪くない」という言葉は純粋に他責思考を強めるし、「失敗してもえらい」は「失敗=偉い」という極端且つ狂った成功体験を植え付けかねない危うさがある。(普通なら失敗から反省するとか、失敗が起きないように注意する…と向かうはずなのだが偉いって…)

この手の優しい言葉は、たしかに気持ちが休まるかもしれないが、やはり気休めにしかならない。

でも、心が弱った人には刺さるし、商売として考えればこんな説教地味たブログ記事よりもはるかに金や再生数、フォロワー数が稼げるからこそ、今日も今日とて発信されているのだろうと推察する。