HSP(繊細さん)という言葉が良くも悪くも流行ってからというもの、(私の観測範囲の話で恐縮だが)「HSPで生きづらいから○○できないor○○は無理だ」というような言い訳として使う人を割と見かけるようになったと思う。
(私個人的にはひじょうに胡散臭くて情弱ホイホイなキラーワードではあるが一応心理学の概念である)HSPが言い訳に使われる理由について、個人的な見解を以下で述べていく。
「HSPだから○○できない」という絶望に安堵を感じているのでは?
HSPを言い訳に使う人の中には「HSPだから○○できないor○○は無理」という一見すると絶望的とも取れる情報に、どこか救いや安堵を見出しているように思えることがある。
人間は自分にはなにか可能性があると言われるよりも、自分には可能性がないと言われた方が救いに感じる場面があるものだ。
例えば、受験で志望校に受かるために勉強しているがなかなか成績が伸びずに悩んでいる…そんな状況の中「あなたは志望校に受かる可能性がある」という励ましの言葉は嬉しい半面、プレッシャーを感じる言葉でもある。
そんな言葉よりも「あなたは志望校に受かる可能性は微塵もない」というような絶望の言葉をかけてもらう方が、「あぁ、自分には合格の可能性がないのか…もしそれが真実だったら、いまやっている勉強をほっぽり出して楽になれるし、なかなか成果の出ない無駄な勉強からようやく解放されるんだ!」と希望を感じることがあるだろう。(実際に感じても堂々と主張できるものではないが)
これと同じ心理が、HSPを言い訳する人にもあるのではないかと私は個人的に疑っているのだ。
とにかく頑張りたくない人がHSPを言い訳に使う
可能性がないと言われた方が救いに感じる人に多いのが、とにかく努力を嫌がること。つまり「頑張りたくない」という思考である。
とはいえ「自分は頑張りたくないです!」と堂々と胸を張って主張する人はまずいないものだし、それをできるぐらいの度胸がある人は繊細でもなんでもなく、ある意味でふてぶてしくタフな存在といえよう。
努力はしたくないが、それを堂々と主張する勇気もない。そんな無気力で怠け癖のある人からして、「HSPだから○○できない」という情報はまさに好都合である。
ただ自分個人の意見として頑張りたくないという主張を「私はHSPだから○○はできませんor苦手でですor配慮が必要です」と言い張ることができる。
こうすることで、自分に対するクズなイメージを持たせないようにしつつ、自分の「頑張りたくない」という願望を叶えられるのだ。(まぁ、HSPを自称する人に対する疑いの目を持つ人が以前より増えてきている昨今では流石に通用しづらい手段だとは思うけど)
もちろん、世の中には無駄な努力であったり、時代錯誤な努力があることは認めるが、かと言って何の努力もせずに自分の生活を成り立たせることは不可能であろう。
学生には学生なりの、社会人には社会人なりの日々やるべきことなり、こなすべき面倒事や人間関係がある。それらをせずにいれば、学業成績が下がるだとか、それとなく退職するように圧をかけられるとか、場合によっては待遇の悪い職場に追いやられたり、引きこもり、貧困、心身の不健康…など、いわゆる社会の底辺に落ちていくのは想像するまでもない。
クズで怠けている無能な自分を美化・肯定するためにHSP(繊細さん)のイメージを利用する
HSPに関してグーグルやyoutube、SNSで検索すれば、ほぼ間違いなく「HSPは生まれつき(先天的)なものである」という情報を目にすることだろう。
それと同時に、繊細さんはとても良心的で道徳的だとか、芸術方面に秀でているだとか、他人に寄り添えるだとか、個性的ほかの人には見られない才能を秘めている存在だ…という具合に、過度に美化・神格化された情報も一緒に目にすることだろう。
こういう一連の情報を見て「あぁ、自分が今の社会や人間関係で生きづらいのは自分の努力不足や怠慢ではなえかく、生まれつき決まっていることだから仕方ないよね」と安堵に近いものを感じるだけでなく「自分は実は努力嫌いでクズでどうしようもない人間ではなく、むしろそんなことがどうでもよくなるぐらいに優れていて、秀でていて、才能を持っている素晴らしい人間だ」と歪んだ自己肯定するという現象が起きているのではないかと私は疑っている。
最後に
一応芸術方面の仕事をしている身である私個人の意見で恐縮だが、基本的にHSPを名乗る人に対して才能だとかセンスだとか、可能性や期待などを感じたことは一度もない。
むしろ芸術方面でもかなり努力(要するに下積み)や競争が迫られることが多い立場だからこそ「仮に私がまだ見いだせていない才能が当人にあったとしても、それを芽吹かせるだけの努力が継続できず、中途半端な結果に終わっていくだろうな」と感じるのが正直なところだ。
自称HSPの人が具体的に何に優れているのか、何に秀でているのか、何の才能があるのか…については、はっきり言ってわからないし感じ取れない。
むしろ社会への適合を拒否した結果、案の定社会から拒絶されたうえに「自分には才能があるんだ」と勘違いしているように見えて、なんとなくだがこじらせた厨二病クリエイターに近いものを感じる。