他責思考、他罰思考が身につく原因について語る

メンタル・心理
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仕事や勉強、プライベートにおいて、何か問題や衝突が会った時に「自分ではなく他人or社会or環境or政治が悪い!」と、自分以外の何かに原因があると考える事を「他責思考」あるいは「他罰思考」と呼ぶ。

うつ病の中でも、とくに最近増えている新型うつ病とされる人には、この他責思考が強く染み付いている。かつて自責思考でうつ病になっていた人と同じ接し方が効きづらいとされている。

もちろん、精神を病むまでの状態ではないにしても、何かにつけて自分はハラスメントの被害者だ」とか、「社会における弱者であり、差別や偏見、不遇を受けている」と訴えて、他人に責任追求をする人は私の体感では増えているように感じる。

とくに、twitterやyoutubeといったネット上の世界でも、ナチュラルに他責ムーブメントを行う人が時折現れては炎上している光景をよく見かける。

今回は、そんな他責思考が身についてしまう原因について、個人的な見解を述べさせていただく。

 

子供を大事にしすぎる教育環境が過度な他責思考を育んだ

他責思考が育まれる要因として、子供時代の環境…つまり、家庭や学校における子供への接し方が強く影響している。

かつては、親や先生に怒られたり、友達同士で喧嘩や衝突をする中で社会性を育む。つまり、「自分が自分が」という自分の要求ばかりを主張する自己中心的な姿勢を持ち続ければ、人と関わる時に衝突を起こす可能性がある…と言うことを、身を持って学んだものだ。

自分のわがままを主張しても、それが全面的に受け入れられるというラッキーは起きず、むしろわがまますぎる自分を反省(=自責)し、何かお手伝いや約束を決めるなどの取引をすることで、自分の要求が受け入れられるという、社会性が身につけられたものだ。

しかし現代では、褒めて伸ばす教育が叫ばれるようになったり、子供の個性や自主性を尊重する教育法が重要視されるようになっている。

これにより、自制心なくただ自分のわがままを押し通そうとする行動を許してしまい、「わがまま=自分の個性」として肯定的に捉えてしまうに子供が生まれてしまう。当然、自らの言動を省みる機会は失われてしまう。

そして、自分の主張が受け入れられない状況になっても「自分の要求に問題があった」とは考えられず「自分の要求を受け入れてくれない大人の方に問題がある」という、モンスタークレーマーのような他責思考が、幼い頃から身についてしまうのだ。

 

周囲の大人の善意の結果身につく他責思考

フラットな視点で見れば「叱って伸ばす」「社会性を身に付ける」という子育てよりも「褒めて育てる」「個性を伸ばす」という子育ての方が、なんとなく子供の心の成長に良い影響が出そうだと感じることだろう。

前者の場合、怒られる怖さを強く感じた結果、何事も怒られない事に意識を傾けるようになる。その結果、消極的でコミュ力のない子供に育ってしまったり、周囲に合わせ過ぎた結果、不安定な社会に合わせて貧困に苦しむような損な生き方をしてしまうのではないか…という不安が、親や教師側には出てきてしまうものだ。

一方後者の場合は、その子の持っている才能や特技を思う存分伸ばせるので、自信や自己肯定感を持てる子供に育ってくれる。先行き不透明な社会を生き抜けるだけのバイタリティを持つ子供になってくれる…そんな可能性があると期待してしまいがちだ。

現にゆとり世代と各方面から揶揄されてきた人たちが、学問やスポーツ、芸術や文化(将棋とか)など各分野で著しい成果を上げているの見れば、なおさら自分の子(or教え子)の個性を伸ばしたいと感じて、善意から子供に対して褒める接し方をするのも自然なことだろう。

しかし、その自然な善意こそが、実は他責思考を助長する原因になっているのではないか…という懸念がある。

 

必ずしも他責思考をしている本人に悪気がないという可能性について

子供のためを思って、個性を伸ばそうとした結果、わがままで自己中心的な部分を伸ばす事すらも肯定してしまうし、そんな調子では子供が他人や社会と衝突することは避けられない。

しかし、衝突した場面でも「自分のわがままな部分は個性であり、自分の強みなのだから、反省する必要はない。むしろ、この個性に周囲の人たちや社会の方が合わせるべきだ」という、他責ムーブメントをとってしまう。

子供の視点にたてば、

  • 周囲の大人は自分のわがままな部分を高く評価してきたし、自分も自分のわがままな部分に対して肯定的に見ている。
  • 自分がわがままな部分を発揮することは、社会にとって迷惑をかけるようなものではないし、むしろ今の世の中では推奨されるものだ。
  • 自分は悪気があってわがままになっているのではないし、悪気がないのに批判してくる人の方が間違っている、理解が足りないと考える。(=自責ではなく他責で考える)

という具合で、自分が引き起こしたトラブルを解釈しているのだと考えられる。

一般的に他責思考を考えるとき、私たちは「自分にやましいことがあるから、苦し紛れに他責思考を使って責任を回避しているに違いない」と考えがちだし、そのほうが納得しやすい。

しかし、私が思うに、他責思考に走る人は、親や先生など周囲の大人が良かれと思って行ってきた接し方にの影響を受け、純粋に他責思考を身につけてしまっている。

そのため、自分が他責思考を周囲に対して発揮することにためらいもなければ、良心の呵責も感じない。自分は悪いことをしているという自覚がないからこそ、他責思考なのを改善する必要性も感じない。

批判される状況になっても自分の考えを改めようとせず、被害者ぶって周囲との溝を深めているのではないか…と、いうことを述べて、ここでお開きにさせて頂く。