自己肯定感や繊細(HSP)さんというワードが流行して以降、自分軸・他人軸という言葉も一緒に流行するようになったと思う。
言葉を意味通りに捉えるなら、
- 自分軸=自分を軸にして考え行動すること
- 他人軸=他人を軸にして考え行動すること
となる。
えてしてネットやメディアでは「他人軸になってしまった自分の人生を、どうやったら自分軸で生きていけるか」というニーズに沿った情報が発信されている。
しかし、どうもその情報を鵜呑みにしたのか、自分軸を意識しすぎるあまりにただのわがままや身勝手を肯定するだけの困ったちゃんになってしまう人に悩まされる声も散見される。
今回はそんな自分軸になろうとして困ったちゃんになる人について個人的な考察を述べていこうと思う。
自分軸になりたい人と嫌われる勇気が合わさって、ただの自己中迷惑人間が誕生する
自分軸で生きる方法を調べていると、ほぼ高確率で「嫌われる勇気を持ちましょう」という言葉が出てくる。
確かに、普段の生活の中で「ここだけは譲れません!」と主張して周囲に自分の要求が通るように説明したり、納得してもらうように交渉することは大事である。とくに、社会人であれば求められるコミュニケーションスキルの筆頭格だと私は思う。
しかし、自分軸になりたい人はこの嫌われる勇気を「例え相手に嫌われてでもいいから自分の考えを意地でも押し通す」という具合に考えてしまっている節がある。
つまり、相手に自分の意見を受け入れてもらえるように交渉することを放棄して「私は自分の軸で生きるからね。あ、私はあなた方の主張は聞きませんし、そのことに不満ならこっちから距離をとりますからね。」というような、最初から協力的な関係を築く気すら見せない姿勢をとってしまっているために、ただの自己中な人間という印象が強くなるのだ。
ごくごく当たり前のことだと思うが、相手と意見を互いに交わして妥協点を探ることを放棄するようなことを続ければ、他人との衝突が増えて生きづらくなるのも無理はない。
関連記事
自分軸で生きた結果として起こりうる不利益を引き受ける覚悟が無い状態になっている
他人軸…つまり、他人の意見に流されて生きることは自分の人生への責任や当事者意識、失敗へのストレス耐性がない人にとってはある意味楽な生き方である。
他人軸に従って生きていれば、仮に自分の身に不利益なことがあっても「自分のせいではなく他人のせいだ」と結論づけてストレスを抑えることができる。
また、「他人のせい」のほかにも「社会のせい」「政治のせい」「コロナのせい」と他人軸の代わりになるものは多種多様に揃っているので、特定の他人が存在しない場合はそれらのせいで片付けることも可能だ。
しかし、そうした他人軸の生き方は窮屈な部分もあり決して自由で気楽とは言い難く。それゆえに窮屈さから開放されたいがために「自分軸で動ける人間になろう」という心理になるのだ。
ただ、ここで他人軸にどっぷりはまってしまった人は、自分が手にした自由に対する結果を引受ける覚悟が無い。もっと言えば、自由になったことで生じた孤独や将来への不安、責任の重さや選択の結果起こりうるリスクに引受うける覚悟がない。
まぁ、ここで腹を決めて不利益や世の理不尽さを引き受ける覚悟が身に付けばいいのだが、どうも自分軸を選んで困ったちゃんになってしまう人「自由はほしいけど、自由に伴う責任は自分ではなく誰かに背負わせたい」というような、理にかなわない思考に陥ってしまっていることが目立つ。
その光景を周囲にいる人が見て「あの人は自分軸でい生きているけど、自分勝手で他人を振り回しているし、自分が招いたトラブルを誰かのせいにしているやべーやつだ」という反応が出てきてしまっているのだと推察している。
最後に
えてして自分軸のような心理・メンタル系の情報を欲しがっている人は、傾向的に精神的に弱っている、心がくじけかけている人が多い。
そういう人に対してこの記事のように「自分で自分の尻をふけるような大人になれ。自由はほしいけど責任は負いたくないという子供みたいな考え方はいい加減卒業する時だ」というような強いメッセージは、下手すれば根性論・精神論になり、メンタルが弱っている人を更に追い詰めるリスクがある。
そうなるのを避けるために、ネット上で心理・メンタル系の情報発信をする人の多くは、基本的に読者を甘やかすかような心は救われるが正しくはないし欺瞞に満ちた発信スタイルになってしまいがちになるのだ。
最後に私がこのような自己責任論や自責思考を推奨するようになったのは、漫画「鋼の錬金術師」の軸にある等価交換の理論があると思う。
何かを得るための痛みを引き受けない覚悟の無い人は、仮に自分軸になれる機会があったとしても自由になれないままになると思えてならない。