頑張ってる人を嫌いになる現象がなぜ起きるのかについて解説する

人間関係・コミュニケーション
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育ちのいい人たちに囲まれて大人になってきた人であればあまりピンとこないと思うが、世の中には勉強やスポーツ、仕事や趣味など、何かに必死に打ち込んで頑張っている人を見ると、つい嫌悪感を持ってしまう人がいるものだ。

もちろん、真面目に頑張っている人からすれば腹が立つことだろう。努力家な人を嫌うだなんて、心のねじ曲がった人だなぁ」という類の感情を抱くと同時に、相手に対して何か一言だけ言いたくなる気になるのも無理はない。

しかし、そこでわざわざ衝突を起こすぐらいなら、代わりにこの手の努力家を敵視する人を上手に回避する術を身につける努力をしておくことが懸命だと私は感じている。

…少々話がずれてしまったが、今回は頑張ってる人が嫌われてしまう現象について、個人的な見解を述べていこうと思う。

 

頑張ってる人を嫌いになる現象が起きる理由・原因

頑張る人の存在が誰かの劣等感を刺激してしまう

周囲に迷惑をかけるような努力をしていない限りは、仕事・勉強・スポーツなどあらゆる場面で努力家な人は高い評価を受けやすい。

努力家な人がチームにいるおかげでチーム全体の指揮が高まったり、ほかのメンバーも当たり前のように努力する習慣が身につき、チーム全体の利益をもたらす確率が高まる。だからこそ、努力家な人は人気を集めやすいのだ。

しかし、これはあくまでもチームにおいて前向きな気持ちの持ち主が多い状況においての話である。

チーム全体が、諦めたムードに支配されていたり「どうせ努力しても無駄」「闇雲な努力は非合理的だ」というように、後ろ向きでひねくれた性格の人が多い場合、努力家な人は彼ら劣等感を刺激する目障りな存在になり、嫌われてしまうのだ。

 

環境や集団の雰囲気の変化を恐れて、頑張る人の足を引っ張っているパターン

だらけきっている人が主導権を握っている集団の中において、努力家な人が主導権を握るような事態になってしまえば、今までのように快適なダラダラ生活を失うリスクがある。

もちろん、仕事や勉強など何かしらの成果を求められる集団であれば、努力家な人が主導権を握ることは決して悪いことではないし、むしろ喜ばれることだろう。

しかし、実際に主導権を握っているダラダラしたい派から見れば、長い目で利益になることであっても、今自分が享受している快適な環境を手放すことは恐怖そのものである。そのため、努力出来る人を軽蔑したり、逆に自分と同じように怠惰さを楽しむことを推奨するのだ。

ナチュラルに努力できてしまう人の存在は、安心して後ろ向きに生きていきたい人にとって面倒な存在なのである。クズだと自覚している人が、自分はクズだと自己肯定して生きていく際にもっとも邪魔な存在が当たり前のように努力出来てしまう存在なのだ。

 

全く見たことがない未知なる存在に対する不安、怯えとして頑張る人を排除することも

「人間は努力できないことが当たり前だし、周囲の人たちも努力できない人ばかりだった」という経験を経て育ってきた人からすれば、進学や就職など環境の変化によって努力するのが当たり前という環境で育ってきた人との出会いは、まさに未知との遭遇である。(逆に、当たり前に努力出来る人に囲まれて育ってきた人から見ても、努力しないのが当たり前な人もまた未知との遭遇なのだが…)

そんな未知なる存在に出会ってまず感じるのが「恐怖」である。初めて外国人に出会って「同じ人間のはずなのに全く別の人間のように感じる」という類の恐怖を感じるのと同様に、未知の存在に出会うことは、えてして強いストレスを伴うものだ。

ただし、このストレスに順応して未知の人とうまく交友関係を持てることもある…が、場合によっては努力家な人を徹底的に遠ざけてしまう人もいる。

これは私の憶測になるが、遠ざけてしまう理由は「自分が知っている世界の中だけで生きていきたい」という願望の強さが影響していると思う。

新しい人に出会い知識や知見を得ることそのものは、見方を変えれば「勉強」であり、努力することそのものである。なお、この手の勉強は学校の勉強というよりは「社会勉強」とか「人生経験」と表現したほうがわかりやすいと思う。

しかし、努力できない人はもとより努力ができないので未知の存在に出会った時に、つい強く拒絶してしまうのだと私は分析している。

 

 

負けや逃げの人生を歩んできた人には努力家はストレス源

最後に、受験や就職など今後の人生を左右する重要な局面で負けてしまった人や、そもそもまともに向き合わず逃げてきた人からすれば、努力家な人はたとえ本人が社会的な成功や幸福を手にしていなくても、目障りな存在とみなされやすいと私は考えている。

自ら負けや逃げに走った人からすれば、努力家な人を認めることは間接的に自分を否定することになる。当然これでは不満を抱えるし、気持ちよくもなれない。

そうした苦痛や不快感を避けるためにも、「頑張っている人は裏で不正をしている」とか「努力家はただの見栄っ張り、無駄な努力しかできない非合理的な人」とか「典型的な体育会系、脳筋」とか「欲望にまみれて品性の欠片もない人」というような悪者に仕立て上げることがしばしば見られる。

ざっくりとでも「努力家=悪」というイメージを身につけてけば、負けや逃げに走った人は劣等感に悩まされずに済むどころか満足感すら味わえる。おまけに、「悪者になるぐらいなら努力しなくていい」と自己肯定できるのだ。

ちなみにだが、かつて努力家だった人が何らかの理由で闇落ちしてこの手の思想に染まることは珍しくない。かつて努力出来ていた人だからこそ、努力家な人の粗探しに努力を惜しまないのが皮肉である。