優しいけど人間関係で損をする人に足りないものを語る

人間関係・コミュニケーション
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「優しい・お人好しな人は損をする」みたいな話を誰しも一度は見聞きしたことがあろうと思う。

実際に世の中は優しい人だけで出来ているものではない以上、強欲な人や他人を尊重する姿勢に欠ける人に巻き込まれて優しい人が損をするという光景はあるものだが、私個人的には優しい人は他人から搾取されてばかりのかわいそうな人である…というわけではないと思うことがある。

むしろ強欲でもなんでもない、ごく普通の人同士で構築されている集団であっても、結果として損をしてしまう優しい人の方が大半であり、そういう人には欠けているものがあると思う。今回はこのことについて語っていこう。

 

真面目でお人好しだが自分の主張がないので見返りもない

優しいけど損をしてしまう人は「○○が欲しい」「○○がしたい」というような自分の希望・欲望・願望・主張が無い。でも人には優しくするので、優しさに見合う見返りらしい見返りを周囲がわからない状態になっている。

つまり、「あの人は優しいけど、これといって欲もない草食系な人だから、とくにこっちからなにか必要以上に見返りを返さなくてもいいよね」と思われてしまった結果、周囲に優しさばかりを振りまくばかりで損をしている状態になっているのだ。

商売の世界でいう「損をして得を取れ」を例にすれば、損ばかりしているが、自分が一体どんな得が欲しいのかわかってないし、周囲もどういう得を上げればいいのかわかっていない。

たとえ凄腕の人心掌握術の達人であっても、エスパーに目覚めた人であっても、願望のない人の気持ちを察することはできない。そうである以上、優しいけど自己主張のない人は、周囲から優しさを拒まれることこそないものの、周囲から社交辞令以上の見返りを受け取ることはできないのだ。

 

 

「優しさを自分の利益のために使う人は腹黒で嫌なやつ」みたいな考えのせいで優しいけど自分がない状態が抜け出せない

無欲だが優しい人以外にも、まるで優しい自分にしがみついているかのような人に目立つのが、「優しさを使ってなにか自分が得をすることを過剰に嫌がる」事と「優しさを使ってなにか利益を得ようとしている人を過剰に軽蔑する」事である。

まるで優しさとは見返りの無い行為こそが正しく、見返りを求めて優しさを使うことは道徳に反するもの、汚れたもの、醜く卑しいもの…というような清廉潔白さを重視する価値観にこだわるあまり、優しさを与えるばかりの状態になるのだ。

 

 

何か主張することそのものが自分が汚れた存在になる気がして何も主張できない

また、ふとした時に「優しすぎて損している自分が嫌だ」と思っても、清廉潔白さを重視するあまり優しさを使って何か得ようとする行為をそのものに忌避感があるため、結局優しさを与えるばかりの自分から抜け出せなくなるのだ。

もし仮に自分が優しさを利用して何かを得る行為をしようものなら、自らの手で自らを汚す行為になる不快感を味わうことになる。とくに清廉であることを絶対視している人であれば、この不快感は凄まじいものになる。

ただ、現実問題として人間関係を送る上で自己主張をしない人が苦労するのは言うまでもない。

まぁ、まともな大人の社会であれば、いじめやハラスメントの対象になるなど露骨に排除や拒絶の対象にされることこそないものの、自己主張しないがゆえに人間関係の中での優先度の低い人物とみなされてしまい、何かと割を食う存在になる可能性は高くなる。

私から言えば、まともな人間関係であっても、その実態は一種の競争である。その競争に参加しようという意思も見せず、むしろ何も主張せず競争を回避しようとする人が、周囲から特別に扱ってもらえる存在になれるはずはない。

 

 

自分の望みは自分の手で叶えるものという考えの重要性

最後に、優しすぎて損をする人の心に優しくない言葉だとはおもうが、自分が欲しいもの、達成したいもの、手にしたいものがあるのなら、それは自分の手で叶えるだとか掴みに行くだとかが必要になる。つまり、自分から動かないと自分の望みは手に入らないものである。

自己主張せず優しくしているだけで、自分の望みを周囲が叶えてくれるほど世の中はうまくできていないし、待っているだけで白馬の王子様や理解のある彼くんがなんでも自分の望みを叶えてくれるほど世の中は甘くない。

「世間はお前らの母親ではない」という某ギャンブル漫画のセリフにもあるように、いい年した大人であろうとなかろうと、自分の望みがあるのなら、誰かが何かをしてくれるのを期待するのではなく、自分から主張して他人を動かしていくことが重要なのだ。

優しすぎて損してばかりの人生が嫌なのなら、得を手にするための行動と責任を取る覚悟を持たなければならないのだ。