「自分の話に共感して欲しい」と強く願っている人の中には、相手がちょっとでも「共感しづらいなぁ」とか「どうでもいい」という態度をとった途端に、急に機嫌が悪くなって怒りだしてしまう人がいるものだ。
とくに、SNSやyoutubeのように「いいね」や「共感したくれたらチャンネル登録よろしくお願いします!」と何かと共感が求められるメディアにどっぷり浸かっている人ほど、自分に対して共感を向けてくれない相手に対して、強いストレスを感じる傾向が見られる。
そんな共感してくれないと怒る人に対して私は、純粋に「めんどくさいし怖い人だなぁ」という感想を持つ。今回はそのことについて語ろう。
他人に共感を強く求めてくる人はめんどくさい
「自分の気持ちは共感されるに違いない」という思い込みが怖い
まず、共感されなくて怒る人を見ていると「自分の気持ちは他人にも共感されるに違いない!」という思い込みの激しさが見られる。しかし、それはあくまでも思い込みであり、勝手に自分が相手にいして過度な期待を抱いているだけにすぎない。
当然ながら、勝手に期待を膨らませようものなら、相手がその期待通りに共感してくれるとは限らないし、期待が外れたことにより精神的な苦痛を味わうことになる。
しかし、その苦痛はそもそもが自分が勝手に期待したことで生まれたもの…つまり、自業自得であり自分の中でうまく処理することが周囲に迷惑をかけないためにも大事だ。
にも関わらず、後述するようにそのショックを他人のせいにしたり、自分のことを棚に上げて被害者ぶってダダをこねて周囲の人を振り回してしまうので、気軽に関わるのが怖い人物と見なされてしまいやすいのだ。
共感しないと被害者ぶってダダをこねてめんどくさい
共感してくれない相手に対して「ひどい、私はこんな真剣に考えているのに!」とか「共感してくれないせいでとても傷ついた!信じられない!」というような、被害者面をすることもまた、共感しないと怒る人によく見られる。
まるで、自分に共感してくれない人を、人の心がわからない冷徹な人、優しさやお思いやりの欠片もないロボットのような人であるかのように責め立てて、駄々っ子のようにごねる。
そんな態度を取っている限りは、共感すればますます付け上ががらせ、共感しなければ加害者扱いされるので、どっちみちめんどくさい人間関係になる。
そのくせ、当の本人は自省する様子はなく被害者のポジションに居座って「あなたは間違っていない!あなたは自分を責めなくて大丈夫なんだよ」と言われるのを待っているかのように振舞う。
そういった精神的に未熟な態度をいい年した大人がやっているのを見ると、なんだか見てはいけない人を見てしまった時に感じる「あいたたた」という”痛さ”を感じてしまう。相手には共感はできないが、一方で共感性羞恥に近い何か感じてしまうのだ。
自分の気持ちが一番で他人の気持ちは無視している自己中な姿勢がモヤモヤする
共感しないと怒る人は、誤解を恐れずに言えば「自分の気持ちや意見がこの世界で一番優先されるものである」という強い自己中心性と「自分が一番なのだから、他人は気持ちはどうでもいい。自分の意見に従うし認めるべきだ」という、傲慢さがある。
要するに、タチの悪いワンマン社長や裸の王様のポジションで普段から振舞っていることが、私の中でゾワゾワとした嫌な感覚を呼び起こしてしまうのだ。
とくに、ネット上では自分に対して共感しない人や、気に入らない意見を投げかけてくる人は、タップ一つで簡単にブロックできてしまう。その結果、周囲にはいつも自分に共感を示してくれる人が集まり満足できる人間関係で構築できるだろう。
しかし、それは外から見れば集団に対して共感をしない人間・集団に対して排他的な態度を取る、被害者ぶって攻撃してくる…という、穏やかではない過激な思想を持つカルトじみた集団であると言える。
SNSをはじめネット上のコミュニケーション手段が発展してからというもの、こうした共感という優しさでつながっている、穏やかではない集団が簡単に作られると同時に、問題を起こす例が増えているように思える。
ネット炎上で明るみになっている例ならまだいいが、オンラインサロンのようなクローズドな集団で、外から見えないところでこのような共感が暴走している集団は、きっと多いと思う。
自分の感性を絶対視して他人の感性を無視している無神経さを感じる
共感しないと怒る人は、自分の感性・感受性を絶対視すると同時に、他人の感性を未熟なもの、劣っているものと判断して見下してしまう無神経さがあるように感じる。
自分の共感を相手に求める割には、相手が持つ感性や意見や受け入れない。共感という言葉が持つ「優しい」というイメージには、およそふさわしくないような相手に対するリスペクトの無い姿勢が目立つ。
「共感してほしい」が形を変えた同調圧力になっているのではないか?
やや強引な意見だと思うが、共感という言葉が良い概念として当たり前のように使われるようになったからこそ「共感をしない人に対して怒ってもいいし、この怒りは正当な権利だ!」という姿勢を持つ人が増えているように感じる。
しかし、私が思うに今の世間で使われている「共感」とやらは、実は形を変えた同調圧力になっているのではないかと思う。
共感という言葉は一見すると優しく良い行いのニュアンスがあるが、実態は「自分の意見に同調しろ、同じ考えをしろ、受け入れろ!」という乱暴な行いの言い換えとして、暗に使われている場面もある。
…もちろん、これは私の考えすぎなだけかもしれないが、共感に対して疲れや不公平感を感じている人には、この考えににひょっとしたら共感していただける………かもしれない。