ネット・リアル関係なく、何かの話題やニュースについて共感を示さない人や、別の意見や考えを示す人が出てくると、こぞってその人を叩く…という光景は、自粛生活でストレスを感じている人が多い影響もあってか、結構見かけることが増えたと私は感じている。
いわゆる、共感(いいね、ツイート)の多さで「この意見は正しいor間違っている」と判断することについては、私はどこか恐ろしい物を感じてならないし、私自身共感の過多に惑わされないようにと自分で自分を戒めているフシがある。
今回は、そんな共感できない人を叩く風潮と最近話題になった正義中毒について、私個人の意見を述べようと思う。
正義中毒と共感できない人を叩く風潮
つい先日「正義中毒」という言葉をテレビで見かけることがあった。正義中毒とは、道徳や法律に反する行為をした人を叩くことに依存している人を指す概念とのこと。
スキャンダルを起こした芸能人をネット上で徹底的に追い込んだり、常識・倫理の点で見て問題行動をした人(例:マイノリティ差別と捉えられかねない発言をした人など)を徹底的に攻撃する。いわば正義感が暴走している人のことだ。
もちろん、これらの行為は行き過ぎたものであれば、正義を執行している人の方が罪に問われ法で裁かれる可能性も否定できない。
また「自分は正しいことをしている!社会正義を行使している!」と考えている。そのため「まさか自分が問題行動を起こしているのでは?」と、自分を省みようしないのが特徴なのだ。
さて、私が思うにこの正義中毒の根底にはただ法律や道徳を守らない人を許さない…という、ごく普通な考えだけでなく「共感できない相手を叩きたい」と感情があると見ている。
もっと言えば、世間一般の多くの人から見て『この人は共感に値しないよね』と思われた人に絞って叩き、正義を行使して良いことをしたい、という願望があるように感じるのだ。
大抵の場合、正義中毒者の対象になる人は、スキャンダルを起こしたり、社会的に見て迷惑行為や問題行動を起こした人である。その性質上、どうあがいてもそんな問題を起こした人に対して共感のような優しい態度を向ける事は難しいだろう。
たとえば不倫問題を起こした人に対して「この人が不倫をしたくなる気持ちもわかる」なんてことを思うこと自体、被害者を冒涜する行為だとしてバッシングを受けてもおかしくない。ましてや発言でもしようものなら、炎上は不可避&ドン引きされるだろう。
何かの加害者に対して共感するような人は、犯罪者予備軍だとか危険思想の持ち主だとみなされて、正義中毒者のターゲットになりかねないのだ。
共感を覚えやすい人ほど共感できない対象を正義の名のもとに叩く
正義中毒者のように、問題のある人を叩くことにのめり込む人は、大抵は他人への想像力や共感力の欠如があると思われているらしい。
いくら社会正義とはいえ、加害者に危害を加えれば加害者も傷つきを覚える。普通なら、加害者の心が痛むであろうことが想像できるし良心が痛む。だからこそ正義とは言え問題を起こした人を正義の名のもとに攻撃する人は、想像力や共感力がないのだと考えられるのだろう。
しかし、私は決してその限りではないと思う。むしろ、ある特定の集団や属性に対して強い共感を持っている人こそ、自分達から見て共感できない対象を見つけた時に「この人は私のコミュニティに所属する多くの人が嫌悪感を抱く対象だから、叩いても問題ない。むしろ攻撃することはコミュニティの総意である。そう、私は集団の正義を執行しているのだ」と感じて強く叩いているのだ思う。
かつて私が意識高い系だったとき、意識高い系の人達は自分と同じ価値観や生き方をしている人には強い共感を示すことがあった。
しかし、その一方で自分達とは違う価値観を持つ人…それも、自分達とは相容れない価値観に対しては、一方的に嫌悪したり、格下であり、間違っているものとして叩くことがあった。
あくまでも、意識高い系たる自分達の方が正しいし、自分と同じ意識高い系の人達もそう感じている。だから自分達はおっさんを叩くし、昭和の働き方を叩くし、有益でない行動をしている人を叩くし、意識高い系を冷笑する人を叩く…という光景を幾度となく見てきた。
こうした経験から思うに、ある特定集団への共感力が高い人ほど、自分とは違う価値観、文化、ルールを持っている人を敵視するのだと考えている。特定集団に強い帰属意識があるからこそ、集団心理が働き、誰かを叩くことに対してブレーキが効かなくなっているとも考えられる。そのブレーキが壊れた攻撃行動こそ、正義中毒そのものなのだ。
共感力の高い人が正義中毒になるという考えの問題点
ただし、共感力の共感力の高い人が正義中毒になる…という考え方は、あまり浸透しないと思う。
これは、考えとして正しい正しくないの問題ではなく、こうした考えが共感されにくい要素があるからだと見ている。
もしも共感力の高い人…つまり、人に寄り添える能力のある慈悲深い人や、強い優しさを持っている人が、じつは排他的な一面があると考えみよう。大抵の人は、優しさと暴力性という矛盾する要素を持つ人の存在を、頭では分かっても心では受けれたくない衝動に駆られると思う。
「とても優しいのだから、そんな乱暴な部分があるとは思いたくない。」「優しい人に対して疑いの目を向けるのは気が引ける」「むしろそんなひねくれた考えをする人の方が間違っている」と感じてしまう。だからこそ、共感力の高い人が正義中毒になるという考えは多くの人の共感を呼ばなのだと思う。
一人の人間に矛盾した要素があるとすんなり受け入れられる人はそう多くない。もし多いのであれば、正義中毒に陥って暴走する人はもっと少ないはずだ…というのが私の見解である。