弱者性を振りかざす「弱者マウンティング」が嫌われる理由

社会・国際
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社会において、貧困、生活苦、仕事にあぶれる、コミュ障やメンヘラ、各種マイノリティの問題…など、いわゆる生きづらさに直結する要素を持っていると主張する人は、最近の世相もあってか増えているように感じる。

言い方は悪いが、今の世の中は誰だって何らかの「弱者」に簡単になれてしまうぐらいに、お世辞にも景気が良いとは言えない状況である。そのためか、時折「自分のほうがより社会的弱者です!」と主張する人が出てきては、めんどくさい人扱いされることも多くなった。(ネット・リアル関係なく)

こうした、自分のほうがより何らかの弱者であると主張して、周囲の無理解や無配慮に対して不機嫌になることを、ネットスラングでは弱者マウンティング(あるいは弱者ハラスメント)と呼ぶらしい。

今回はこの弱者性を振りかざす行為が何故嫌われるのかについて、個人的な見解を述べていこうと思う。

 

個人的な要求を弱者性を利用して押し通そうとする姿勢が嫌われる

弱者性を振りかざす人は、個人的な要求を「○○(弱者性を示す単語)なので配慮して欲しい」と言い換えてしまうことが目立つ。

例えば「私はコミュ障なので、皆さんに話しかけてほしいです」とか「私はHSPなので鈍感で共感力のない人とは関わりたくないです」という具合に、自分の弱者性を隠れ蓑にして個人的な要求を押し通そうとする。

一言でいえば、ずる賢い方法で他人を説得しようとするのだ。そうしたずる賢い姿勢そのものが顰蹙を買い、嫌われる原因なのだ。(※なお、ファッションコミュ障などのファッション○○が嫌われる原因も同じである。)

集団生活を余儀なくされる場面では、個人的な希望を押し通すために、弱者性を振りかざす人が問題視されやすいのは明白である。

なお、弱者性の厄介なところは、弱者であることを示しているために「それは単なるあなた個人のわがままでは?」という具合に、ちょっと切り込んだ指摘をしようものなら、「あなたは○○な人を差別するのですか?」という、逆ギレする理由を与えてしまうことである。これについては次で詳しく説明しよう

 

指摘や疑問の声を上げた人を悪者に仕立て上げ、社会的に叩きのめす傾向がある

一般的に、社会的弱者に対してはあまり否定的な意見をすることや、考えを持つことはタブー視されている。もちろん、思想を持つこと自体はそのもの問題ないが、それ口にしようものならあらゆる方面からツッコミが入り、炎上などの面倒事になるリスクが高まる。

そのため、こうしたデリケート且つ可燃性の高い弱者性に関する話題は、政治、宗教、野球に関する話題同様に公の場ではしないほうが無難である。

 

だが、上でも触れたように弱者性を振りかざす人は、弱者であることを理由にして個人的な要求を押し通そうとする部分があるので、つい「いや、それは○○(弱者性)ではなくて、あなたのわがままでは?」と、つい指摘したくなることがある。

そのときに取るのが「あなたは○○(弱者性)を否定するのか?」と、個人レベルの指摘をまるで社会問題かのように大げさに取り上げて、指摘や疑問の声を持つ人を一方的に封じ込めようとすることだ。

とくに、振りかざした弱者性がより社会で関心を呼びそうな事柄(ジェンダー、障害、貧困問題など)であれば、指摘や疑問の声を上げた人をより強く叩きのめせる。運良くいけば自分に向けられた批判の矛先を、すべて相手に向けさせてその場の主導権を奪取することもできてしまう。

そのため、まっとうな人ほど弱者性を持つ人をそれとなく遠ざけるようになる。何がきっかけで謂れのない社会的な制裁を受けるぐらいなら、最初から関わらないほうが無難であると考えるからだ。

 

 

弱者性を振りかざす人は傷つきこそするが反省の色があまり見られない

弱者性を振りかざす人は周囲から思うように理解されないことや、自分の(過剰な)要求が飲まれないことに対して、精神的な傷つきをしっかりと感じている。また、傷つきに関しては指摘や疑問の声を挙げられた場合も、同様に感じている。

ただし、その傷つき体験から「自分にも落ち度があったのでは?」とか「自分の要求が受け入れられるように、こちらも妥協や譲歩をしあtり、なにかを我慢するべきでは」というような、反省の色が見られないのが特徴的である。

心理学の言葉を借りるのなら、自分で自分を俯瞰的に見る能力(メタ認知能力)が低いと言わざるを得ない人が多い。

俯瞰的に見れないからこそ、傷つきこそ覚えるが自分を省みるという円滑な人間関係を築くにあたって重要な対人能力が身につかない。結果、周囲から見て「あまり関わりたくないめんどくさい人」認定されて、自然と距離を置かれてしまうのだ。

 

同じく弱者性を武器にする人と集団になり増長すると歯止めが効かなくなる

ただし、人間関係が全く築けないというわけではない。むしろ、自分と同じように弱者性を持っている人に対して近づき、集団を形成することがある。

ただし、この集団は同じくまっとうな人間関係が築けない人同士で成り立っており、世間一般の集団からは思想や言動の面でのズレが大きい集団である。

また被害者意識が強い人が多い人同士が集団になっているため、外部の人間や社会に対する要求が、個人レベルの時よりもその度合いが強くなりやすい。

更に集団になっているために、責任感が希薄でますます自分(達)を省みる事は難しくなる。結果、近寄ってはいけないタイプの穏やかではない人たちがたむろしている集団とみなされ、ますます世間の人との溝が深まるのだ。