恥ずかしがり屋だとか緊張してしまう癖がある人の中には、聞かれてもいないのに「自分は人見知りで…」と、つい口にしてしまう大人が多いものである。
ただ、私個人的な意見としてはこういうことを言う人はどうもめんどくさいというか、扱いにくいというか、自分で自分の好感度を下げてますます人間関係をハードモードにしてしまう人のように思う。(そういう意味では「繊細さん(HSP)」を自称する人も同じである。)
今回はそんな人見知りを自称する大人について語っていこうと思う。
人見知りを自称する大人はめんどくさい人と見られやすい
冒頭でも述べたが、人見知りを自称する人は基本的にめんどくさい人と見られやすい。
それも、子供ならまだ人馴れしていないとか「大人と比べて精神的に未熟な部分があるから…」という理由で受け入れて貰いやすいが、立派な大人が人見知りを自称する姿は、どうも見ていて厳しいと感じるものがある。
まぁ最近では「いい年して…」という言い方自体が、年齢というプライバシーに踏み込む言い方であるためにタブー視されている風潮があるので、面と向かって「いい年した大人なんだから、いつまでも人見知りをしてたらダメ」だとか「人見知りなのを言い訳にするのは格好悪い」と言われることは、親しい間柄であってもあまり無いことだろう。
しかし、そういう関係こそが後述するように、人見知りを自称する人のめんどくささを強めている原因になっているのだ。
「人見知りです」と主張したあとに改善する気があるかないかで印象は大きく変わる
人見知りを自称する人は、その後人見知りを克服するか、それとも人見知りのままで居続け周囲の人に小さなモヤモヤを与え続けるかで、その後の印象が大きく変わる、
言うまでもないが、前者の場合は人見知りであることに甘んじず自分のコンプレックスを克服していくので印象は良くなりやすい。どんな状況屋年齢であれ、成長していく人というのは周囲を元気づけるので公私ともに人望や信用を獲得しやすい。
しかし後者の場合はそうはいかない。人見知りを自称するが、かと言ってそれを克服する気はなく、人見知りのままで居続ける。仕事のように組織の一員として働く人の中に、いつまでもこのような成長もせず改善もせず、半ば開き直るかのように人見知りを続ける人と好き好んで関わろうとするひとはいないものである。
言い方は悪いが人見知りで居続ける人はコミュニケーションにかかる労力が普通の人よりも要する人であるので、基本的に組織で動く場合においては歓迎されることはないものである。
人見知りを言い訳にし続けることの功罪
もちろん、人見知りを自称する人は、何もデメリットのみを享受するためだけに自称しているわけではない。それなりのメリットがあるからこそ、自称しているのだと私は考えている。
で、具体的なメリットと言うのは、おそらくだが他人から気遣ってもらえる…つまり、人間関係における面倒事を他人に代行してもらうことなのだ。
また、大人であっても年齢的に若かったり、組織内において若手であれば、周囲の人達から甘めに見てもらえるというメリットもある。
人間関係は苦手だけど、人間関係から得られるメリットを享受したいという、怠惰と甘えに近い感情を持っている人からすれば、人見知りを自称するのはある意味合理的なのだ。
しかし、このメリットは若さを失うとそうはいかない。場合によっては男女関係なく美貌を失うと、若さを失うのと同様にデメリットの部分が強くなる。
もう組織内でも後輩を持つ立場であるのに人見知りを自称していると、流石に甘く見てもらえることは無い。というか、正視に耐えられない。共感性羞恥を駆り立てられるような、なんというか胸の奥がざわつくような状況を見る人によっては与えてしまう存在が、人見知りを自称する大人なのだ。
ただ、そういう「生理的に無理」と表現できる感情は、いい年した大人であれば普通はしないものである。
最後に
これは私が大学時代に学校教員養成課程にいた事が影響していると思うが、当時受けていた講義の中で「人見知りは乳児期の現象であり、大人に向けて使う言葉ではない」という説明がなされていたのが記憶に残っている。
まぁ、大抵の人は人見知りは子供・大人関係ないものだとは思うが、「自分人見知りで…」と自称する人は、すごく意地悪な言い方になるが「自分はいい年した大人ですが、実は中身は乳児でして…」と自称していることと同じと考えれば、人見知りを言い訳にしなくなるきっかけになるかもしれない。