「繊細な人は天才」信仰の問題点について語る

HSP
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誤解を恐れずに言えば「繊細な人は天才」という考えに対しては、私はどうも鵜呑みにしてはいけないと思う。

HSPという(勝手に自称できてしまい、診断がかなりアバウトな)概念が流行る前からも、「発達障害は実は天才だ!才能を秘めた人だ!」というような、何かと社会で苦労しやすい人に希望を持たせようとする考えに対して、私はどうも素直に見れない性分である。

今回は、そんな「繊細な人は天才」信仰の問題点について、個人的な見解を語ろうと思う。

 

「繊細な人は天才」信仰に刺さる人は心身ともに弱っている可能性が高い

身も蓋もない話だが「繊細な人は天才である」という極端な主張に対して、簡単に心が揺さぶられてしまうような人は、もうすでに心身ともに弱っている可能性が高いと私は考えている。

というのも、世の中の多くの人は歴史に名を残すような偉大な人物ではないが、かと言って悪い意味で歴史に名を残すような大馬鹿者でもない。

つまり、大抵の人は客観的に見ればそこまで優秀生でもなければ劣等生でもない…という無難な結論にたどり着くし、無難な自分を認識しているからこそ極端な「○○は天才だ!」という主張に対して、深く傾倒するような事はまずないのだ。

 

しかし、これはあくまでも精神状態が安定している場合に限る。

もしも、受験や就職活動で挫折してしまい、自分にとって満足できない生活を送る状況になったり、貧困による生活苦、将来の不安や社会不安の増大、病気や怪我などにより心身の不調を嫌でも自覚せざるを得なくなったときに、人間は極端な主張や意見に染まりやすくなるのだ。

そういう視点で考えれば「繊細な人は天才」信仰は、そもそも社会で生きづらさを覚えており、それこそ希望が見いだせるものであれば、喜んで飛びつこうとするぐらいに追い込まれている人向けのキャッチコピーとも言えるだろう。

昨今の繊細さん(orHSP)ブームは、ひねくれた見方をすれば、ただ生きづらさを感じるのではなく、生きづらさを感じている人のほうが実は才能に恵まれており、感受性も豊かであり、多くの人に共感できる人間性を持ち、人として優れている何かを持っている素晴らしくて堂々と自己肯定しても問題無い存在である…という、甘い夢を見させてくれる現実逃避色の強いコンテンツだからこそ、ブームになっているのではないかと私は見ている。

 

「自分は繊細だから…」と決め付けることの危険性

「繊細=天才」論を鵜呑みにして、「自分は天才になる可能性を秘めている繊細な人間だ」と思い込むこと自体、私はあまり良いものだと思っていない。

というのも、自分を過度に悲劇の主人公として仕立て上げると、次第に交友関係にも支障が出てしまう。

要するに、他人から「うわ、この人めんどくさいから関わらないようにしよう」と思われるようになる。それも、まともな神経や常識感覚を持ち合わせている人や、育ちがいい人や人を見る目のある人から距離を置かれやすくなるからである。(今のご時世、わざわざめんどくさそうな人と深く付き合うような真似は公私ともにまずしないものである)

その代わりに、めんどくさい人をめんどくさい人だと見抜けないような感覚を持っている人や、メンヘラのような難がある人にあえて近寄ろうとしてくる問題を抱えているであろうことが見え見えな人が寄ってきてしまう。

商売に置き換えて考えると、繊細ブランディングをすることは、良い客層にカテゴライズされる人を遠ざけ、よろしくない客層の人ばかりを集めてしまうことになる。

結果、いつまでも人間関係に恵まれず、不満を抱えながら繊細すぎて不幸な自分を演じることになる…というか、まさに繊細すぎて不幸な自分から脱却できなくなっては「もう今の人間関係やだ、整理しよう」というムーブをかます。

当然ながら、そんな人間関係リセットムーブは、まともな神経を持ち合わせている人をドン引きさせてしまう。つまり、良い客層にカテゴライズできる人との関係がますます構築しずらくなるのだ。

 

自分は天才でもなければ大馬鹿者でもないという当たり前の現実に気づけなくなるリスク

最後に、上でも触れたが大抵の人は天才でもなければ大馬鹿者でもない。そのどちらにも当てはまらないような無難な人間である。

そして自分は無難だと自覚できれば、地に足つけて努力して受験や就職活動、職場内で着実な結果を残そうという、派手さ・わかりやすい面白みこそないが、人生をまっとうに生きていくための現実的な考えができるようになる。

しかし、「繊細=天才」論にのめり込むような人は、現実の自分を直視しようとはしない。一発逆転だとかある日突然なんの前触れもなく自分が認められるような状況になる…というような、拙い考え方をしている傾向がある。

そして、そんな子供みたいな万能感(幼児的万能感)をとっくに未成年の期間を過ぎているのに持っているからこそ、まっとうな大人から呆れられてしまい、良い人望を失うのだ。

なお、ここで繊細な人は「じゃぁ、やっぱり自分はどうしようもないダメ人間だ」とか「全人類の中で最も不幸な人間だ」というように、極端な悲観論に走ってしまうことがある。しかし、これもまた現実の自分を直視できていないという点では「繊細=天才」論にのめり込んでいる状態と大差は無い。

「繊細=天才」でもなければ「繊細=大馬鹿者」でもない、両極端に陥らない自分を直視できてこそ、生きづらさに繋がる幼児的な万能感から解放されると私は考えている。