「生きづらさ」や「自己肯定感」というワードをよく見聞きするようになってからか、どうも「良好な人間関係」というワードも一緒に見聞きするようになったと感じる。
ここでいう良好な人間関係とは、程度の差こそあれど例えばギスギスしていないとか、威圧的な態度を取る人がいないとか、陰湿な行為が蔓延していない…というような、精神的なストレスに悩むことがなさそうな人間関係のことを指すのだろう。
もちろん、そういう心理的安全性の高い人間関係や仕事・学校・プライベートでも求める人が多いであろうことは容易に想像できる
だがしかし、この手の人間関係を求めたがる人は、その人の考え方の癖や行動のせいで、良好な人間関係に入れたとしても、次第に居心地が悪くなり人間関係をリセットしてしまうのではないか、と個人的には思う。今回はその理由を語っていこうと思う。
良好な人間関係にお客様気分で入ってくる人は嫌がられる
結論から述べれば、良好な人間関係を求めている人はお客様気分になっている。つまり、誰かから好意や承認を受け取ることや、場合によってはプレゼントなどを与えられるなど、自分がチヤホヤされることばかりを求めてしまっている。
しかし、その一方でお客様らしく例えば人間関係に貢献するとか、相手に感謝するとか、場合によっては自分の意見を妥協して他人の意見を優先・尊重するとか…と言った、相手に何かを与えたり、集団の維持のために協調的な姿勢を取ろうという気持ちがない。
「十分なお金は払わないけど、手に入るものは全部手に入れる気でいますよ」という姿勢では、良好な人間関係に所属している人たちからも厄介もの扱いされてしまう。
良好な人間関係に貢献してていく意思なければ、どんな人間関係も辛くなる
まぁ、良好な人間関係はそもそもが良好であるがゆえに、最初のうちは新しく入ってきた人を歓迎はしてくれるだろう。
ただし、それは学校に来て間もない転校生が歓迎されるるのと同じ状況と言える。転校生といえども学校に慣れて行くにつれてチヤホヤされることはなくなり、委員会活動などほかの生徒がしている役目を任され、クラスの一員として働く必要性が出てくるものである。
そういった集団に所属する上でこなすべき義務をせず、ただ「良好な人間関係の良いところをあますとこなくしゃぶり尽くしたい」みたいな姿勢では、たとえどんなに人間が出来ている人同士の関係であっても、辛くなるのは無理はないのだ。
既に出来上がっている人間関係に入っていく以上、妥協と協調は必須である
良好な人間関係と言っても、その実態は既に出来上がっている人間関係である。
つまり自分の希望や要求に沿うように自らの意思で作り上げた人間関係では無い以上、ある程度の妥協を受け入れたり、集団に馴染むために協調することが重要になる。
お客様気分で良好な人間関係に入ってくる人は、お客様気分であるがゆえにまさか自分が妥協という自分の意思を尊重されない事態を目の当たりにすると「え、なんで?どうして?」とヒステリーを起こしてしまう傾向がある。
とくに今まで何度も人間関係を転々としてきた人や、まるでリセマラをするかのように人間関係リセット癖を繰り返してきた人には、この特徴が色濃く見られる。
まぁ、人間関係を構築する以上、自分の主張がいつでも優先されるという事態の方がレアケースなのだが、そういう厳しいけど正しく、そして良好な人間関係に対して飢えている人にこんなことを言うと逆上して炎上しかねないものである。
そのためかネット上では良好な人間関係に入る方法こそたくさんあるが、入ろうとしている人の性根を叩き直す考え方の改善を促す情報は少ない。その結果、良好な人間関係に入りたくても失敗してしまう人がいるのだろうと推測している。
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最後に:良好な人間関係に入るための努力について
最後に私一個人の意見としては、良好な人間関係は外から見る限りは治安もよく、住みたい街ランキング上位の都市に並ぶような安心感がある。
しかし、そんなランキング上位のイメージがあるがゆえに、良好な人間関係に入りたければ、その関係の見合うような人間になる努力もまた重要になってくる。
しかもここでいう努力とは、純粋に年収をあげるとか、ダイエットをするみたいな分かりやすいものではなく、
- 人としての品位がある。(=下品な人お断り)
- 礼儀作法を心得ている。(=無礼者お断り)
- 社会人としての常識的な振る舞いができる。(=社会不適合者お断り)
- 基礎学力があり、知的な会話や振る舞いができる。(=おバカな人お断り)
- 清潔感があり、人を不潔にさせない気配りができる。(=不潔な人、「自分が自分が」みたいな欲深い人お断り)
というようなものを身に付ける努力である。ただ、見てわかるように、これらはちょっと努力すれば身につくようなものばかりではない。
いわゆる日頃の行いが良い人であることが良好な人間関係に入るための条件であるのだが、果たして良好な人間関係に飢えているような生きづらい人が、これらの能力を有していて且つ日頃から努力できるのかについては疑問が残る。