褒め言葉を疑う癖ができる理由について説明する

人間関係・コミュニケーション
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私自身、悪い癖だと自覚してはいるが他人の褒め言葉をあまり素直に受け取れない。

むしろ「この人はどうして私を褒めているのだろうか」と褒め言葉を疑う癖がある。純粋に見れば性格が悪く、ひねくれた人間であることは自覚している。

今回は、この褒め言葉を疑う癖について語ろうと思う。

 

どうして褒め言葉を疑うのか

他人を利用・操作するために褒め言葉を使う人に出会ってしまった

褒めるというコミュニケーションは一見するとポジティブなものに見える。

しかし、一方では褒めて相手の気持ちをよくさせることで、ある意見に誘導したり、褒めた人の都合よく他人を操作する場面でも使われる…という側面を持った人心掌握術である。

褒め言葉を疑う人は、おだてて気分をよくさせたところで「実はこういう話が…」と話題を切り出して来て断れないように仕向けてきた人と出会ってしまった経験や、自分が持っていう能力や立場を利用したいがためにゴマすりをしてきた人に関わってしまった経験をしてきた結果、褒め言葉を疑う癖がついてしまったのだ。

とくに、今ではリアルの人間関係だけでなくSNSやyoutubeなどのネット上の人間関係でも、影響力のある人に好かれて自分も人気者や有名人になりたいために、まるで媚を売るかのように影響力のある人を持ち上げる人がいるものだ。

そうした下心のある人が放つ褒め言葉に嫌気が差した結果、褒め言葉を疑う癖が身についてしまったのである。

 

「この人は褒め言葉さえ言っとけばええやろ」という雑な対応をする人に出会ってしまった

ゴマすりにも通ずることだが、とにかく気に入られたい相手に対して「この人はとにかく褒めて沖さえすれば問題ないだろう」という態度で、雑に褒められた経験をしてきたために、褒め言葉を疑がってしまうことがある。

もちろん誰かに好かれたい、気にいいられたいと思うこと自体は問題ないし、それを否定するつもりはない。

しかし、気に入られたい相手に対して「とりあえず褒めておけばいい」という態度は、相手を尊重していない随分生意気な態度であるのは言うまでもない。

まるで褒めている人が、褒められる人を「所詮この人は褒めておけば気持ちがよくなってくれるぐらいにチョロい人だ」と見下していると解釈できるので、その褒め言葉にホイホイ乗っかってしまおうものなら、自分の人を見る目の無さを露呈して恥をかくことになるのだ。

そんなことにならないためにも、褒め言葉を態度では受け入れつつも、内心は疑う…という姿勢を持っている人は少なくないと感じる。

 

嫌味として褒め言葉を使ってくる陰湿な人に出会ってしまった

嫌味として褒め言葉を使ってくる陰湿な人に出会ってしまったことで、褒め言葉を鵜呑みにしなくなる人も多い。

例えば、私の場合は純粋に笑顔が気持ち悪かったので、親に「無理に笑わず普通の顔が一番」と言われて育ってきた。もちろん、親なりの気配りがあるのだとは思うが、ややひねくれた顔をすれば「あなたに笑顔は似合わない」ということを暗に伝えていたのだと思う。

嫌味として使われる褒め言葉は、表面的には褒めているのでポジティブに解釈するのが自然である。しかし、その褒め言葉の裏にはおよそ褒められない要素が潜んでいる。

私の場合は笑顔がおよそ褒められない部分であったため、嫌味として言われる「普通の顔が一番」という言葉に対してあまりいい印象を持てていない。

その他にも、

  • 「スポーツはダメでも勉強はできるんだね。(スポーツもできるようになるべきだ)」
  • 「男の子なのに真面目で優しいだね(もっと男らしく積極的になりなさい)」

というような、一見すると褒めているように見えて、腹の中では褒められていない部分を伸ばすべきだという言葉を多くかけられてきた。

重ねていうが、これは親なりの心配りだとは思う。しかしどこか刺のある褒め方であったために、今でも褒め言葉を素直に受け取ることに苦労している。

 

「自分は褒められるような人間ではない」という思い込みが褒め言葉を拒絶している

自己評価が極端に低い人は「自分はお世辞にも褒められるような人間ではない」という思い込みの強さのせいで、周囲の人は何気なくかけてくれる褒め言葉を拒絶してしまう傾向がある。

なぜ拒絶してしまうのかと言えば、低すぎる自己評価にそぐわない反応をしてくるからこそ「この人は自分を高く見積りすぎている。自分のことをちゃんと理解していないろ人だ」と違和感を覚えるからこそ、拒絶してしまうのだ。

なお、当の本人は褒め言葉を拒絶することを謙遜や慎ましさと捉えている節があるが、実態は卑屈になりすぎて褒めてくる人を邪険に扱うような態度になっていることが目立つ。

 

人間、自分の利益のためなら”優しい人”を演じるのは、わりかし簡単である

最後にこれは私の持論だが、人間は自分の利益(経済的なものに限らない)のためであれば、いわゆる優しい人を演じるのは簡単である。

例えば、相手が喜ぶことをしたり、相手を応援したり、相手に好かれるような言動をするためにはどうすればいいかについては、本やネットで調べればたくさん出てくる。

人に好かれるためのコミュニケーション術や一流の接客業から学ぶ○○術…のような、他人を喜ばせるノウハウについては、今のご時世探すことにはまず苦労しない。

加えて、優しい人になれば社会で生きていく上でのメリットも大きい。経済的な面のみならず、他人から見て「近づきやすい人」と思われて交流をもたれやすくなるし、SNSやYouTubeならファンを獲得しやすいし、そのまま収益化もできる。

さらに「優しい人」というキャラを確固たるものにできれば、多少グレーなことをしても「まさか優しい○○さんがそんなことをするはずないよね」と擁護する意見も集まりやすい。

なにせ、優しい人で有名であるからこそ、多少ずる賢いことをしても第一印象の良さに引っ張られてずる賢さを覆い隠すこともできる。

そういう戦略的で計算された優しさに触れてきた人の中には、他人が振りまく優しさについて懐疑的になっている人が多いと私は思う。