他人に強く共感を求めてくる人に感じる違和感、モヤモヤを語る

人間関係・コミュニケーション
この記事は約5分で読めます。

普段の生活の中でも、当たり前のように「共感」という言葉を見聞きするようになって久しい昨今、公私関係なく何かにつけて共感を求めてくる人というのは増えていることだろう。

自分の考えだったり、趣味嗜好だったり、はたまた社会問題や政治・経済・思想や人生論など、あらゆる話題に対して共感を求めてくる行為そのものは、もちろん自然なものだと思う。

しかし、中には共感を求めて来る人に対して違和感というか、どことなくしつこいだとか、ウザったいだとか、純粋に重い…という類のモヤモヤとした感覚を覚えたことがある人は、共感という言葉や概念が当たり前のように浸透している昨今であれば、いてもおかしくないと思う。

今回はそんな共感を求めてくる人に感じる違和感、モヤモヤの正体について、個人的な見解を語ろうと思う。

 

共感を求めてくる人に感じるの自信の無さ、堂々としてなさ

私が思うに、他人に強く共感を求めて来る人は、どこか自信が無い。もっと言えば、自分の考えや主張に対して堂々と胸を張るだけの自信がないように感じる。

しかし、一方では自分の意見や主張を誰かに話したいだとか、認めて欲しいという承認欲求・自己顕示欲が強い。

この自信の無さと承認欲求の強さが、違和感の根源である。つまり、他人に対して半ば同調や同意を求めるような形で共感を求めてくるのだと私は考えている。

そもそも、自分の意見や主張、はたまた自分そのものに自信を持っているのであれば、他人に共感を求めるような真似に出る必要性はない。たとえ主張したところで、共感が得られなくとも、堂々と振る舞っていればいいのだ。

しかし、自信がないのに承認欲求が強い人の場合は、自分の意見を共感してもらうことを強く望む。つまり、自分と同じ意見を持つ存在がいると確認できることで自信を持とうとする…が、一方で自信の無さゆえに共感されないことに強い恐怖を覚える。

共感されないのを嫌がっているのであれば、わざわざ他人に共感を求めるような真似をしなければいい…と言えばその通りだ。しかし、その場合は同じ意見を持つ人と共感できない不安に襲われてしまう。そもそも自信がないので、不安とうまく付き合えず結果として誰かに共感を求めにいっては玉砕…という、一連の流れがあるのだ。

 

共感して欲しい相手をあらかじめ選んで共感を求めているのではないかという疑念

このように、自信がないのに承認欲求が強い人は

  • 誰かに自分の意見を共感しもらいて自信を手にしたい
  • しかし、共感されずに精神的なショックを受けるのは避けたい

という特徴があるため、事前に相手が自分の意見に共感してくれる相手か否かを見定める傾向があると私は見ている。

明らかに共感を示してくれないであろう相手に無闇にアタックして砕け散るようなことを避けたいからこそ、なるべく自分のことを受け入れてくれそうな、当たり障りのない人…もとい優しい(意味深)な人にアタックをするのだ。(なお、ここでいう「優しい」は自称しただけで獲得できる、ほぼ「無」みたいな個性の意味で使われる「優しい」というニュアンスである。)

もとより自己主張が激しく我がある人に共感を求めにいくのではなく、どちらかといえば他人の申し出を断りづらそうな優しい人に共感を求める。

その過程で「この人なら大丈夫」という安心感が侮りや奢りになってしまう。結果、どこか押し付けがましい態度で共感を強く求めてしまうのではないかと私は見ている。

 

関連記事

「優しい性格が長所です」な人に残念なイメージが付く理由
自己紹介や就職活動の自己PRで自分で自分を「優しい性格です」という人に対して、どことなく良い印象がないというか、そもそも印象にすら残らず数分もすればその人のことを忘れてしまう…という経験をしたことがある人は、きっと少なくないと私は思う。 ...

 

共感を求めているのではなく、同調を求めているのではないか?

上でも触れたが、できるだけ共感してくれそうな人を選ぶということは、言い換えれば共感を示してくれる人の意思を尊重しているとは言い難い。

つまり、自分の意見にとりあえずは共感のポーズを示してくれる都合のいい他人を求めているのだと言い換えられる。

また、もっと悪い言い方をすれば、共感ではなく同調を求めているとも言える。しかし、同調は「同調圧力」という言葉にもあるようにイメージが悪いし、相手を尊重していない身勝手さが目立つ。

ただでさえ自信がない人が「自分は他人に共感ではなく同調を求めている」と自分の醜さを受け入れるような真似をしようものなら、それこそ強い精神的なショックを受けてしまう、自分で自分のメンタルを傷つけることになる。

そうならないためにも「自分がやっているのは、あくまでも共感という優しさや温かさからくる行為である」と自分で自分を騙そうとする。しかし、傍から見ればそれは自分の醜い部分を直視せず、合意に共感を求めるという矛盾と欺瞞が付きまとう行為をしているにほかならないのだ。

 

共感を強く求める人ほど、共感してくれない人に対して妙に冷たく排他的な傾向が見られる

最後に、強く共感を求める人の中には、共感を示してくれない相手に対して非常に冷たい態度を取る…という、優しさの欠片もない行動を見せることがある。

こうなる理由としては、「せっかく自分を受け入れてくる味方だと思っていたのに、現実は自分を拒絶する敵だ、アンチだ、加害者だ」と考えてしまう。(=他責思考が強いor自責思考に耐えうるだけのメンタルの強さがない)

そして、相手を敵や加害者だと思い込んでいるからこそ、「自分を拒絶する相手に対して冷たい態度をとることは何ら問題はない。むしろ私は拒絶された被害者なのだから、相手に怒りや不満を見せることは被害者たる自分に認められた権利だ」と自分で自分を納得させた結果、排他的な態度を取っているのだと考えている。

相手の意思も尊重しないどころか、攻撃的な態度を取る。しかも、その態度に対してなんら落ち度があるとは考えず、自分本位で共感という優しさを他人に一方的に求めるし、共感してもらって当たり前という感謝の欠片もない態度を取る。

 

こうした一連の言動が、他人に強く共感を求めてくる人に感じる違和感、モヤモヤの一つの正体なのだと思う。