周りが敵だらけと感じてしまう人の心理や特徴を解説する

人間関係・コミュニケーション
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繊細さんだとか、ビジネス系youtuberの「付き合ってはいけない人○選」みたいな情報が流行りだした影響もあってか、どうも人間関係の中で「自分の周囲には敵しかない!」と感じてしまう人が増えているような気がしてならない。

確かに世の中には真性のクズで外道がいるのは事実だが、かと言ってネットの情報を鵜呑みにして周りの人を全て敵だと見なしてしまうのは、個人的にはあまりよろしくないと思う。

という前置きはさておいて、今回は周りが敵だらけと感じてしまう人の特徴について個人的な見解を述べていこうと思う。

 

「人間にはいい面も悪い面もある」という曖昧な状況・状態に強いストレスを感じる

一般論として人間にはいい面、悪い面どちらも持っているものである。ある一面では優しさを見せるが、もう一面ではずる賢い面やクズな面も見せる。こういう二面性は誰にだってあるものであり、またこういう二面性こそが人間らしさとも言える。

しかし、こういう人間らしさ…つまり、人間とは複雑で、曖昧で、はっきりしない部分があるというどっちつかずな状況に対して強いストレスを覚えてしまう人がいる。そういう人は「自分の周りには敵しかいない!」と極端な考えに走ってしまいがちになる。

この手の人はあらゆる物事をはっきりさせたいという願望が強い。

たとえば…

  • 考えを一旦保留させておく。
  • 物事の結論を急いでつけようとせず、(モヤモヤするが)曖昧な状態で一回様子を見る。
  • 悩みを今すぐ解決するのではなく時間が経つのを待って悩みがどう変化していくのかを待つ。

というようなことができないせっかちな部分がある。

そういうせっかちな部分が対人関係においても「この人は敵か味方か今すぐ結論づけたい!」という形で影響してしまう。

※ただ、せっかちな割には猜疑心が強いためか、味方と断定せず敵と断定する方に走ってしまうことも多い。

 

「自分には人の悪意を見抜く繊細さがある」という優越感や満足感を欲しがる

自分で自分を繊細だとか、人を見る目があるだとか、なにかと特別な能力があると(恥ずかしげもなく)自称したがる人に多いのが、人の悪意を見抜くことに対して優越感や満足感を得ていることだ。

まるで自分が探偵か凄腕の刑事にでもなったかのような気分になって、あるはずもない他人の悪意や邪な感情を妄想、想像、憶測する。

そして、いつしか妄想を事実であると感じるようになって、他人の悪意をでっち上げてはそれを見抜ける自分に対して優越感を抱く。

傍から見ればナチュラルに失礼なことこの上ない行動なのだが、当の本人は人の悪意に見抜ける自分に陶酔している節が見られるのだ。

ナチュラルに失礼な人、無神経な人の特徴を語る
おそらく本人に悪意や悪気がないのは理解できるが、どうもナチュラルに失礼な態度や口ぶりをする人。知らず知らずのうちに他人を煽ったり、小馬鹿にするような無神経な態度を取る人と言うのは、えてして嫌われやすい人だと思う。 そして、ナチュラルで...

 

敵とみなした人を蔑み憐れむことで自分を善人だと強く思い込む

人の悪意に敏感ですぐ敵認定する人の中には、悪意を持っているとみなした人を「あぁ、あの人は普段からストレスを抱えていて、それであんな悪意ある行動に出ているんだなぁ…かわいそうに」と、他人を蔑み憐れむような態度を取ることで、自分が善良で優しい人間であると確認したがることがある。

ただ、すぐ上でも述べたように見抜いた悪意は妄想の産物であり、事実を正しく表しているとは言い難い。

おまけに他人を憐れむ感情は、思いのほか顔や態度に出やすい。例えば意味もなく相手に優しくするとか、どことなく相手を舐めてかかるような態度を取るとか、接するときの態度が一人の人間としてリスペクトしていないことが見える…というように、不自然な部分がある。

ただ、当の本人はその不自然さを「感受性の高さからくる優しさ」のようなものとして捉えているため、自分がナチュラルに失礼な人だという認識がない。

結果、そのナチュラルな失礼さに対して不満を感じる人が増え、本当に自分を敵視する人が増えて居場所がなくなってしまう…ということが起きるのだ。

 

最後に

身も蓋もない持論だが、仕事や学業などいわゆる世の中で求められている競争から負け、うだつの上がらない状態にある人は、自分の周りにいる人が皆自分よりもしっかりしていて優れていて、どこか自分脅かす存在のように見えてしまうことがある。

要するに、周囲が敵ばかりだと思えてしまうのは純粋に自分の努力不足や能力不足が原因なのである。(ただ、そんなことを言っても救いがないのだが。)

 

ただ救いがないらこそ、どうにかして救いがあるように認知を変えていくことがある。

その一種として

「周囲は敵ばかり」→「敵に囲まれている自分は被害者」→「被害者である自分の方が正しい、正当に評価されるべき」

とかなり強引ではあるが、強引なりに救いがあるように思えてしまうような考えに走ってしまうことがあるのだ。

「周囲は敵ばかり」と思えば自分がのいたらなさや未熟さを改善する必要性がないという、狂った自己肯定が可能になる。

こうなるのは「敵が悪いのだから敵側の方が変わるべき、私は被害者なのだからそんなかわいそうな立場の人に変化を求めるのはおかしい」という一般的によくある理論に基づいているのだろうと推察している。