社会において気遣いできることは基本的なコミュニケーション能力の一種である…という考えに異論を挟む人はいないだろう。
とはいえ、気遣いができれば人間関係万事うまく行くというものではない。「自分は気遣いができているのに、どうして人間関係がうまくいかないだろう」と、自分の努力(=気遣いすること)が身を結ばないことにで悩んでいる人は、割と多いのではなかろうか。
今回はこの気遣いと人間関係の悩みについて、個人的な見解を述べていく。
「人間関係の中で何もできていいない=気遣いできている」と勘違いしている
気遣いできるのに人間関係で苦労するのは、純粋に気遣いできていない。つまり、自分で自分を気遣いができる人だと勘違いしていることが、人間関係で苦労する原因なのだ。(ただし、ここでは気遣いをする相手の人格等に明確な問題がある場合は除くものとする。)
繰り返すが、自分は気遣いできていると感じている…が、傍から見れば気遣いを受けているだとか、「遠慮もできるし慎み深い人だなぁ」という印象も実感もない。
ただ集団内に所属しているだけでしかなく、何か集団のために積極的に動いたり声をかけることもない。基本的に指示待ち&受身の姿勢であるという印象が強い。場合によってはこれといった印象が無い…つまり「無」の印象になることもある。
また、仕事のように行動に責任が伴う場面では、そういった待ちの姿勢が「気遣いができる」という肯定的な印象がつくことよりは、「ぼけーとしていてやる気があるように見られない」という否定的な印象がつきやすいものである。場合によっては、ただ自己保身に走っている非協力的な人のように見られてしまうのも無理はない。
加えて、気遣いは別に陰キャラや消極的な人の専売特許でもなんでもない。積極的に行動できる陽キャラや体育会系タイプの人でも気遣いできる人は普通に存在している。
むしろ活発に動く人が見せる気遣いの方が「この人はガツガツ動くことも、一歩引いて落ち着くこともできる有能な人だ」という具合に、ギャップからくる好印象を得やすいものである。
「周囲は自分の気遣いに気づいてない!」と思い込みを強めてしまい人間関係がギクシャクしだす
この手の「無」そのものみたいな印象なのに「自分は気遣いできている」と感じている人の中には「周囲の人は自分の気遣いに気づいていない」と不満を感じることが多い。
また、不満を募らせ「周囲の人は皆自分の気遣いを仇で返すような道徳的に優れていない存在だ!」というように見下し敵視するような考え方に陥ってしまうことも目立つ。
要するに被害者意識を募らせてしまい、めんどくさい人になってしまいやすいのだ。
なお、こうなる前に「自分で自分を気遣いできるという認識は、ただの自分の勘違いだった」と自覚して反省できればいいのだが、どうもこの手の人はシンプルに自分が勘違いを起こしているという不事実を認識する能力はない。あるいは、認識しようとしても精神的な苦痛を感じて他責に走ってしまう事が多いように思える。
「自分は気遣いできる」という盛大な勘違いをしている時点で「自分=良い人」という認識であろう。自分を善人だと思っている人ほど、自分の醜い部分を認める行為はシンプルに苦痛に感じるからこそ、認めようとしない…とも考えられよう。
「他人を気遣える繊細な自分」が本当に存在しているかどうか疑えるか鍵である
気遣いできるはずなのにのどうも人間関係になじめない人は、純粋に自分が気遣いできる云々という認識から一旦離れて見ることが大事だと思う。要するに、自分自身を疑うという習慣を身に付けることが大事なのだ。
‥ということを書くと、「意図的に自己肯定感が下げるように仕向けるつもりか?」という声が聞こえてきそうだが、自分で自分を疑う事は自分を客観的に見るためには大事な作業だと私は考えている。
もちろん自分を疑う過程で、自分がただ勘違いしていただけのみみっちくちっちぇ人間だとか、ただビクビクオドオドしていただけだとか、むしろ自分のほうが周囲から気遣いを受けていたことに気づかない恥ずかしく未熟な人間だった…という事実に触れて、首周りをかきむしりたくなる衝動に駆られることもあるだろう。
しかし、そういう受け入れがたい事実を認めなければ、少なくとも人間関係が今よりうまくいくことはないと思う。恥を知る事は、生きづらさを解消するためには重要である。
最後に自分の認識と周囲の認識に齟齬があるとき、相手ばかりを非難するのではなく自分にも落ち度がないか振り返る…と書くと、非常にもっともで当たり前なことだと思う。
ただ、この当たり前のことを「苦しいことからメンタルを守ろう」とか「自分が苦手と感じる人から距離を置こう」と無責任に優しい言葉を発言する方々のせいで、出来なくなっているのではないか…と最近感じる。