「自分はコミュ力がある」と勘違いしている人に見られる特徴を語る

人間関係・コミュニケーション
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「私はコミュ力がある」と勘違いしている人…つまり、自称コミュ強の人の話し方や態度には、ある一定の特徴がある。

今回は、自称コミュ強な人に見られる特徴について、個人的な見解を語ろうと思う。

自分と関わりのある人にその特徴が見られるか。はたまた、自分自身にその特徴が見られるか…について、参考になれば幸いである。

 

コミュ力があると勘違いしている人の特徴

対話ではなく演説が得意、一方的に話したがる

「コミュ力=話す能力の高さ」であると考えているために、自称コミュ強な人はとにかく一方的に話す、途切れずに話し続ける特徴がある。

会話のキャッチボールであるはずのコミュニケーションが、気が付けば一方的にボールを投げ続けられている。会話というよりは演説や独演会といった、一方通行な関係になっていることが目立つ。

また、自称コミュ強な人の中では「自分ではうまく話せてて好印象を獲得できている」と自己評価しているが、相手からすれば「こちらの話を聞いてもらえなくて不満がある」「一方的に話し続けられて疲れる」といった評価の食い違いが生じているケースも目立つ。

 

会話の中の沈黙を嫌がる

また、とにかく一方的に話したがることが災いして、沈黙になる瞬間や話が途切れる瞬間をひどく嫌うと同時に、沈黙の時間を埋めるべくとにかく無理をして喋り続けようとする必死さが見られることも多い。

こうした態度は「話が上手な人」というよりは「無理をして会話をつなぎ止めようとしているように見える」と思われたり、「なにか焦っているのでは?焦らなければいけない事情があるのでは?」と誤解されてしまうこともある。

テンポよく話すことは大事ではあるが、沈黙してお互いに考えを深めたり、話の内容を自分の頭の中に落とし込む時間も大事である。沈黙を許さない会話は、それらの会話の中身を深める時間すら排除してしまう危険性があるのだ。

 

会話のテクニックばかりが磨かれて人間味が無い、薄っぺらい

自称コミュ強な人は、会話が上手くなるためのノウハウやコミュニケーションに関する心理学の知識が豊富で、実際に話していてもそこまで会話に苦労することはない。むしろ、スラスラと話ができる。

しかし、話していくうちになんとなくだが「この人、勉強したテクニックだけで話していて、本性が見えない。何を考えているか見えてこない」という類の、うまく言葉にしづらい違和感を抱いていることに気付いてしまいがちだ。

誤解を恐れずに言えば、自称コミュ強な人の話し方は整いすぎてて人間味がなく良くも悪くも印象に残りづらい。何かの教本に書いてあるテクニックをコピーして話しているだけにすぎず、確かに心地よい会話ではあるのだが、その心地よさに惹かれて仲良くなろうとするのには、どこか「怖さ」を感じる話し方になるのである。

もちろん、そういう心地の良い会話ができる人が仕事や恋愛で求められているのは事実だ。しかし、あまりの会話の引っかからなさゆにえ、口だけはうまい人という印象を抱きやすい。

口だけは上手い人の特徴を説明する
普段仕事をする中で気をつけているのが、妙に話が上手い人、トーク力がある人、それも理由はわからないけど説得力のある話し方をしたがる人の話(とくに、営業など金銭が関わる話)に対しては、即断即決をしないようにしていることだ。 確かに話すのは...

 

話が合わない人に対して「あの人はコミュ力がない」と断定してしまう

自称コミュ強な人は、自分と似たような立場や状況にいる人と話すことは上手だが、一方で全く接点の無い人に対してはうまく会話ができなくなる傾向が出てくる。

このような状況に対して、普段から会話が得意であることを鼻にかけているためか「自分のせいで会話が続かなかったのだ」とは考えずに「あの人はコミュ力が低い、だから会話がうまくいかなかったのだ」と、断定してしまう癖がある。

コミュニケーションが言葉のキャッチボールであることを考えると、会話が続かないのはどちらか片方にだけ原因があるとは考えづらいものだ。

どちらにも落ち度があった結果、うまく会話ができなかったと考えるのが腑に落ちやすいものだが、自称コミュ強の人はそれができず、一方的に「相手のコミュ力の無さに原因がある」と決めつけて、自省しない傾向が見られる。この自省の習慣がないことこそ、勘違いを大きくさせていく根源である。

 

他人の気持ちを完全にわかったかのような態度を取る

自称コミュ強な人は「他人の気持ちや心情に対して強い共感を示せますよ」という態度で接してくることが目立つ。

しかし、その多くは共感という言葉から感じられる、優しさや親しみやすさをまとってはいない。むしろ他人の気持ちをわかった気になっており、自分で他人の気持ちを勝手に決め付ける傲慢さ、未熟さ、そして失礼以外の何物でもない厚顔無恥さをまとっている。

辛辣な言い方をすれば、他人のことを理解できていると思っている自分に陶酔している、「他人の気持ちは所詮この程度だな」とタカをくくって接しており、自分の理解出来る範囲でしか他人を知ろうとしない敬意に欠ける態度があるために、自称コミュ強な人と関わるうちに多くの人は違和感を抱くのだ。

 

自称コミュ力がある人は、自然に話しかけやすい人だろうか?

私の自論になるが、自称コミュ強な人は商談やディスカッションといった話すことが前提の場面でない限りは、他人から自然と話しかけられることが少ない人のように思える。

こう思う根拠は、自分のコミュ力の高さを鼻にかけており、どこか近寄りがたい雰囲気を放っている。仮に話しかけても自称コミュ強な人のペースに巻き込まれて、自分の話が聞いてもらえない、満足できる会話ができない可能性があるために、プライベートな会話の相手として話しかけられなくなるのである。

ただし、自称コミュ強な人だからといって、全員がこうなるとは思わない。中には、自称コミュ強な人に憧れている、その人の話を聞くことを楽しみたい人が話しかけてきて会話が繰り広げられていることもあろう。

なお、その場合は自称コミュ強な人の独壇場となり、会話というよりは演説、あるいはライブ配信を見ているという関係性になるので、会話のキャッチボールをしているとは言い難い。