「今日の自分のあの発言で○○さんを不快な気持ちにさせてしまったのではないだろうか?」と後悔したり不安になること…つまり、一人反省会をする人は少なくないと思う。
しかし、私はどうもこの手の一人反省会に熱中してしまう人に対してあまり良い印象を持てない。
今回はこの一人反省会についての個人的見解を述べていこうと思う。
勝手に人の気持ちを邪推してクヨクヨする行為はシンプルに失礼なのでは?
一般的に考えれば反省会をするほどなのだから真面目だとか、優しいだとか、気遣いができるだとか…という善人のイメージを持つのが自然だと思われる。(余談だが、近頃良くも悪くも流行っている繊細さん(HSP)な人も、この手の一人反省会に熱中しやすいタイプの人だと思う)
が、どうもその真面目さも優しさも気遣い能力の高さというものが空回りするに留まらず、意図せず他人を「勝手に怒りやすい短気な人間だ」とみなしている節があるのではないか…思うことが私の中で多々ある。
もちろん、当の本人は相手を小馬鹿にしてやろうだとか、他人に見くびっているというつもりはないだろう。
しかし、そういう態度であるからこそ勝手に相手の気持ち(それも怒り、不満、不快などのネガティブなもの)を想像の域に留まらず「絶対相手は不快になったはずだ」と思い込む行為は、自分を戒めると同時に相手は簡単に怒るような短気な人間だという信念を無意識のうちに強固なものにしてしまっている。
そんな信念が出来てしまえば、また同じ相手と関わる際に、「相手は短気」という信念に都合のいいような仕草や言動にばかり注目してしまう。
相手を思いやっているように見えて、実は自分の思い込みの中の相手のイメージに近い部分にばかり着目していて真に相手と関わろうとしていない。関わっているのは自分がイメージしているものに近い相手…つまり、自分の思い込みの中で相手であり相手そのものではない。
こういう独りよがりな精神性で相手につくそうだとか、優しくしようだとかすれば、相手も違和感を覚えても不思議ではないだろう。
「なんかこの人は私に話しかけているように見えて、どうも私に話しかけていないというか、一人で盛り上がったり、一喜一憂したり、かと思えば急に関わらなくなってしまう。他人事ながら一体何がしたいのかよくわからないし、どこの誰を見て話しているのかもわかならない、ある種の不気味さを感じる変な人だ」という類のモヤモヤとする印象を持たれても無理はない。
「自分の些細な言動が他人に多大な影響力を与えている」という思い込みの強さを感じてならない
もう一つ引っかかるのが、一人反省会をする人は「自分の些細な言動が他人に多大な影響力を与えている」というような、妙な思い込みの強さがあることだ。
社会の中で生きていれば多少なりとも誰かに影響を受ける&与えること自体は普通にあることだ。しかし、その影響力の大小について考えたことはあるだろうか?と私は一人反省会に熱中している人に心の中で問いかけたくなる衝動に駆られることがある。
具体的且つ正確な統計を取ることは難しいとは思うが、一度自分の発言で
- その場にいる人間の何%が気持ちが揺さぶられたか
- ある特定の一人の人が自分の些細な発言で何%の確率で気持ちが揺さぶられたかてみる。
について冷静に考えてみるといいと思う。
冷静に考えれば0%でも、100%でも無い、中途半端な数字に落ち着くものだと思う。ここまでやれば、所詮自分の影響力は絶対でもなければ、恐ろしく強いものでもないということに気が付くだろう。
「今の発言で不快なりましたか?」と聞けないからこそ、勝手に不安と妄想が強まること気づこう
これは私の持論だが、人間関係含め、0か100かのように白黒はっきりさせたい願望が強い(=はっきりしない事柄へのストレス耐性が低い)人ほど、勝手に相手の気持ちを妄想する。そして、妄想を事実であると認識する傾向があると思う。
そして、この妄想癖が最近では「共感力の高さ」と誤って捉えてしまう人が増えてしまい、勝手に相手の気持ちを妄想しては決めつけて人間関係でゴタゴタを起こすという現象起きていると考えている。
なお、これについては、以下の記事で詳しく書いているので参考にして頂ければ幸いである。
最後にぶっちゃけるが、仮に自分の発言にいたらない点があったとして、相手に「今の発言で不快になりましたか?」と聞けるだろうか?
おそらく大抵の人は聞けないし、仮に聞こうものなら相手に対して失礼である。そういう聞きたくても聞けないし、確認したくてもできない事柄に熱中すればするほど、不安や妄想が強まるのではないかと個人的に思ってならない。