毒舌と悪口の違いについての考察

人間関係・コミュニケーション
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毒舌と悪口。どちらも似たような意味で使われる単語であるし、明確な区別をつけるのは難しい。

解釈次第で「自分は毒舌だと思ってたのに、悪口だと思われていた」ということが起きやすい以上、どこからが毒舌で、どこからが悪口であるかの明確な線引きはつけようがないと思う…が、あえてこの記事では毒舌と悪口の違いについて、個人的な考察を述べていこうと思う。

 

毒舌は鋭いツッコミ。悪口は下手なツッコミ

私が思うに、毒舌と悪口はお笑いにおけるツッコミの上手さのような要素が両者を分ける一つの指標になると見ている。

毒舌は技術を磨くことや訓練が必要ないわばキレのある鋭いツッコミである。また、キレがあるからといって相手の心をなるべく傷つけすぎないように、また自分があまりにも嫌な人だとかヤベーやつだと加減しなければいけないという高等な技術が必要になる。

毒舌は思いのほか縛りや制限が多く、それゆえにそれらを無視してしまうと下手なツッコミのように、手加減無しの相手を傷つけたりイラつかせるだけの悪口になってしまうのだ。

もちろん、相手をイラつかせるという点では毒舌も悪口もどちらも似たようなものだとは思うが、後述するように毒舌にはユーモアがあってつい相手を「ぐぬぬ」と黙らせるような側面があり、それこそが毒舌と悪口の違う点だと思う。

 

毒舌にはユーモアがあるが悪口にはユーモアもひねりも無い

毒舌と悪口の違いとしてあげられるのが、ユーモアや”ひねり”、言葉遊びといった技術の部分である。

 

…と書いてもピンと来ないかたもおられると思うので、またしてもお笑いで例えてみよう。

よくお笑いや漫才、笑点の大喜利などでハゲていることで笑いを取るキャラの人に対して「ハゲ」とストレートに言うのはあまりにも芸もなければひねりもない。このような思ったことをただ言うのは悪口の特徴と言える。

芸人である以上言葉なり態度なりに工夫を凝らした上で、たとえば比喩表現(ツルツル光っていることを指して後光がさしていると言われる桂歌丸師匠とか)を使ってハゲに関するネタを披露し、笑いであったり注目だったりを取るのが理想である。おまけに、どことなく芸術点の高さを感じる芸風になる。

このように、直接的に「ハゲ」と言わなくても「あ、この人ハゲをネタにして笑いを取ろうとしているな」と感じさせる言い方や言葉選びのような要素が毒舌の特徴と言える。

 

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毒舌は言われると「ぐぬぬ」となるが、悪口は逆に言い返したくなる

毒舌も悪口も正論の要素を持ち合わせていることが多い。

しかし毒舌の場合はキレのあるツッコミ力の高さ、ユーモアや言葉選びの巧みさから、言われた側が何か反論しようとする場合、同等に同じ言い回しなりツッコミ力なりを披露しないと言いくるめられてしまったり自分の知的センスの無さを披露して余計に恥をかくことになる。結果「ぐぬぬ」と毒舌を言ってきた人に対して沈黙せざるをえなくなってしまうのだ。

一方で悪口の場合は、ツッコミ力も言葉選び能力もなく、ただ思っていることを加減せず口に出しているだけなので、受け取る方も同じように加減せず思ったことを口に出すだけというある意味頭を使わなくてもよいという楽な対応が取れる。

場合によっては思っていることを口に出すだけでなく、うっかり手が先に出てしまうことも悪口を言う時には起きるだろう。

 

…こうして見ると、毒舌とはなるべく物理的な暴力に発展しないように、舌鋒の鋭さだけ物事で終わらせようとする人々の希望が生んだ話術であり戦術みたいなものとも言える。

イギリスや京都のように皮肉や嫌味が好きな国や都市が反映し続けたのは、軍のような物理的な戦力を持つことはもちろんのこと、舌鋒の鋭さを磨く事を怠らなかったことも影響している…のかもしれない。

 

最後に 受け取る側次第で毒舌も悪口もどっちも同じように受け取られる

最後に冒頭の繰り返しになるが、毒舌も悪口もどちらも受け取る側次第で混同される事がある点には要注意である。

まぁ、大抵は毒舌が悪口に捉えられることばかりで悪口が毒舌に捉えられる事はない以上、毒舌というのは言わない方が無難であるのは言うまでもない。

 

ただ、個人的には毒舌を言い合える仲というある意味理想的な人間関係のように思える。

あらゆる発言がやれ行き過ぎた教育指導やハラスメントとみなされてしまう昨今においてはとくにそう思う。古臭い男の友情てきな拳で語る仲は流石にはやらないと思うが、代わりに舌鋒の鋭さで殴る光景は、なかなか見ものであろう。

本当に手の込んだ毒舌というのは、見聞きする人を唸らせる芸術の側面がある。昔の笑点で桂歌丸師匠と三遊亭円楽師匠(当時は楽太郎だった)の小競り合いを見て楽しんでいた人がいたように、そういう名人芸と呼ばれるような毒舌家を楽しむ人は、意外と多いのではないかと思う。