なんでもハラスメント認定したがる人の心理について語る

社会・国際
この記事は約5分で読めます。

セクハラやパワハラに関する認知が広まってきた頃からか、些細な事ですぐにハラスメントだと認定する人が増えたように思う。

もちろん、数多いハラスメントのなかには体臭などのに関する「スメルハラスメント」のように一定の合理性があり個人的に「まぁ、ハラスメント認定されても仕方ないよなぁ」と思うものはあるが、なかには

  • コクハラ:告白ハラスメントのこと
  • 新型パワハラ:頑張りすぎないように声をかけることによるハラスメント

のような、まともに向き合うのがアホらしくなるような新型ハラスメントがあるとつい先日話題になっていた。

ネット上ではそんなハラスメント認定する行為そのものを皮肉って「ハラハラ(ハラスメントだと主張するハラスメント)」なる概念も登場しているらしい。

…さて、話題が若干逸れたが今回はなんでもハラスメントだと認定してしまう人の心理について、個人的な見解を述べていく。

 

自分のわがままや不満があたかも社会正義であると思いたいがためにハラスメント認定する

なんでもハラスメント認定する人は、自分が感じた不快感や生きづらさといったモヤモヤしたものを「所詮は個人的な感情に過ぎない」と受け入れることに葛藤している。

自分が受けた不快な思いは、純粋に自分の精神年齢の幼さが仇になっているだとか、人としての器の小ささや神経過敏さといった個人的なものではなく、社会的に認められるべき問題である…と考えを飛躍させてしまう傾向がある。

自分個人の不快感を社会的なものだと主張すれば、「いや、それはあなた個人が感じた不快感であり、自分で処理しなさいよ」という類の(人によっては耳が痛いと感じる)意見を封殺できる。

また、もしもそんな意見をしてくる人が出てきたら「あなたはハラスメントの被害者に対してなんて冷酷な言葉を向けるのですか?」と、すかさず反撃もできる。

このような構図を作り出すことで、自分の個人的な不快感やわがままを訴えているだけでなく、自分が社会正義の体現者として正々堂々と自分の怒りを主張し周囲に認めさせることができる。こうして自分の個人的な欲求を社会正義へと昇華させていくことの快感が欲しいからこそ、なんでもかんでもハラスメント認定してしまうのだと分析している。

 

 

自ら被害者のポジションになり、周囲からの承認を効率的に集める

基本的に何らかのハラスメント認定する人は、ハラスメントの加害者ではなく、被害者であることが多い。

リアル・ネット関係なく「自分は誰かにハラスメントしてしまった」と主張する人は滅多におらず、「自分はハラスメントの被害を受けました」と主張する人のほうが圧倒的多数であることは、普通に生活をしている中で感じることだろう。

そして、この手のハラスメント被害を訴える行為は、周囲から「大変でしたね」とか「自分も同じ経験をしたことがあります」というような、被害者に寄り添う声が集まりやすいという特徴がある。特にネット(SNS)上の場合、被害者に対する共感やいたわりのコメントが集まりやすく、てっとり早く承認欲求を満たすことができる。

もちろん、なかには否定的・懐疑的なコメント(いわゆるアンチ)がつくこともあるが、そもそも好意的なコメントが多数集まることが多いために、アンチコメントは好意的な声の多さに埋もれて見つかりづらくなる。あるいは、好意的な声を寄せた人がアンチコメントをする人に攻撃する…つまり、擁護する姿勢を見せることも珍しくない。

被害を訴えればヨシヨシと慰めてくれるだけでなく、自分を傷つけてくるような人を勝手に撃退してくれる人が現れるという安心感を味わうことは、リアルの世界ではまずない。

こうした安心感欲しさに何らかの被害…それも、なるべく自分だけにしかない新種のハラスメントを創造して訴えているのだと私は分析している。新種で且つ斬新であればあるほど、そんな新種のハラスメント主張した張本人に対する注目度は高くなる可能性がある。場合によってはネットニュースになってインタビューされる…という画も描けるというおまけ付きである。

 

 

ハラスメント被害を訴え正義を主張するのは実に気持ちが良くクセになりやすい

私自身、物申す系youtuberのようなブログ記事を書いているからこそ感じることだが、世直しに値する行動そのものには、一種の快感があるように感じる。

たとえそれが仮想の悪を断罪するという、ただの思い込みで突っ走っている行為そのものであっても、実際に世直し行為をしている最中は非常に気持ちがよい。精神を強く保っていないと、ところかまわず仮想の悪なり敵なりを勝手に作っては断罪するという人の道に背いた場所に行ってしまう…つまり、闇落ちしてしまいそうになる。

 

最後に、多くのハラスメントは人と人との関わりの中で起きるものである。ハラスメントされたくなければ孤高に生きていくのが良いのだが、現実はそうはいかない。

人は一人で生きていけない以上、誰かと関わること、協力すること、そして時には自分の要求を下方修正して妥協することは、社会の中で上手に生きていくためには必要不可欠である。

なんでもハラスメント認定してしまう人は、どうも人との関わりの中で受身な姿勢であるのにも関わわず「自分の要求は汲んで欲しいし、しっかりと認められるべきである」という、わがままさと傲慢さ、そして年不相応に幼稚な部分があるように感じる。

でもそんな都合のいいことはそうそう起こらず不満を感じる。その不満を自分で処理できず、社会的に認められるべき問題…つまり、ハラスメントだと主張する精神構造を持っているのだと私は分析している。