多様性を押し付けてくる人が苦手な理由を語る

社会・国際
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最近リアル・ネット関係なく「多様性を尊重できる社会を作っていこう」とか「多様性を認めるような心、寛容の心を持つようにしましょう」という類の言説を見聞きすることが増えた…が、正直に申し上げると、私はこの手の多様性を主張してくる人に強い違和感を覚えることが多い。

その違和感の原因は、おそらく多様性を押し付けようとしてくるように感じるからである。端的に言えば言行不一致、矛盾している。だからこそ、苦手意識を覚えてしまうのだ。今回はそのことについて語ろうと思う。

 

「自分が考える多様性こそが正しい多様性だ」という姿勢にモヤモヤしてしまう

性的マイノリティの認知度のアップ、学力・経済格差の深刻化、そしてグローバル化によってあらゆる背景や文化、事情を抱える人が今や日本に数多く住むようになっている。

そういう時代からこそ、多様性を認め合うことや、お互いに尊重し合う姿勢や寛容の精神を持つ事の重要性は理解できる。

しかし、多様性を声高に主張してくる人は、どうも「自分の考える多様性こそが、この社会における正しい多様性である」と一義的な主張をしていることが多い。つまり「自分の認める多様性こそが全てだ」という姿勢でくるのでモヤモヤしてしまうのだ。

また、その主張に対して「私は多様性はこう考えていますよ」という同じ多様性に関する別の見方や考え方を提示しようものなら「貴方は多様性を否定するのですか!」と、いきなり態度を急変させて怒り出す。

そいう光景をネット上でよく見かけてからというもの、私は多様性を声高に主張する人に対して冷めた見方をするようになってしまった。

口では多様性が大事だともっともなことを言っておきながら、自分に対するあらゆる意見は認めない。このどこが多様性なのだろうか、様性とは一体何なのだろうか…という疑念が湧き出て仕方がなかった。

 

「多様性を認めるべき」は建前で本音は「自分たちを優遇しろ」に見えてくる

私のひねくれた見方かもしれないが「多様性を認めるべき」だと強く主張している人は、あくまでもそれは建前である。

本音は「何かしら社会で生きづらさを感じている自分を優遇しろ」という思惑があるのではないかと思う。

自分自身が社会の中で、何かしらのレッテルを貼られている存在である。生きづらさと直結している問題を抱えている人である。そんな、生きづらさに対して正直に「自分達を優遇してほしい」と主張するだけの勇気はないし、下手なリスクは背負いたくない。

そんな人がちょうど時代の流れに合っている「多様性」のムーブメントに乗っかって、自分を優遇してもらえるように「これからの世の中は多様性を認めるべき」と主張しているのではないかと思う。

そう考えれば、多様性に対して質問を投げかけたときに怒り出して対話を放棄するのも頷ける。もし、下手に対話をしようものなら、実際は多様性について自分なりの考えを持っていないことが明るみになってしまい、自分が優遇されなくなるリスクがある。

そんな事態を避けるためにも、話題逸らしのためにあえて対話が困難であることを示す言動をしているのではないか…と推察できる。

 

「自分の認めたい多様性だけは認めたい」という姿勢にモヤモヤする

また、多様性を認めるべきと主張する人の中には、どうやら自分が気に入っている多様性のみは認めて、自分が嫌いな多様性、生理的に無理な多様性については認めようとしない姿勢を持っている人も目立つ。これもまた、多様性とはなんぞや?…という疑念が湧き出てくる案件である。

例えば、

  • 性的マイノリティについては認めるが日本の草食系で立場の弱い男性は認めない。
  • 見た目地や立場からしてかわいそうだと思われやすい人、共感を呼びやすい人の生きづらさは認めるが、見た目も立場も悪い人や共感しづらい人の生きづらさは認めない。〔例:キモくて金のないおっさん問題…など〕

というように、多様性が大事とは言うものの、その多様性とやらには随分偏りがあり、およそ多様とは呼べない。

それにもかかわらず「これからの時代は多様性を認めて寛容な世の中にしていこう」と主張するその姿がまさに言行不一致そのものであり、見る人が見ればモヤモヤを感じてしまうのだ。

誤解を恐れずに言えば、多様性とやらを決める立場の人になって、他人に対して支配的な態度をとりたい、多くの人をジャッジする独裁者の立場になりたいがために、多様性を叫んでいるのではないかという疑念すら感じてしまう。

 

多様性を押し付けてくる人の”多様性”はいらない

最後に、確かに今は多様性を認めることが大事である世の中には変わりはない。しかし、その多様性を押し付けてくる人の多様性とやらは、正直言って「いらない」と私は感じている。

というのも、多様性とやらは自分にことを拒絶する人や、自分が快く思わない人に対して、価値観を強要したり言いなりになるようにねじ伏せたりするものではないと思っているからである。

自分に好意的な意見を示さない人も認める…これこそが多様性のあるべき姿ではないかと感じている。

 

また、多様性を重視するあまりに、自分たちが大事にしてきた文化や居場所を失うという側面もある。

自分が住んできた町や土地に知らない人が住み始めて感じる不快感に近い物を、多様性を主張する人から感じてしまうので、多様性を押し付けてくる人について素直に寛容になりづらい人もいることだろう。

多様性は大事ではあるが、それを無批判に受け入れることが本当に正しいことであるのかについては疑問がある。多様性を尊重することばかりに夢中になって、多様性を認めない人に不寛容になってしまっては本末転倒であろう。