多様性を尊重しようだとか、誹謗中傷やハラスメントは良くないだとか…そういう昨今の社会の流れに反することを承知で書くが、あらゆる場面で何かと配慮をすることを求められている社会に対して、ある種のストレスというか疲れを感じている人は意外と多いのではないかと思う。
今回はこのことについて個人的なボヤキみたいなものをまとめていこうと思う。
普通のコミュニケーションですらも過剰に相手への配慮が必要になった
- 迷子になっている子を助けようとしたら通報・事案扱い。
- 業務に必要な指摘をしたらパワハラ・モラハラ・セクハラ扱い。
- 学校生活を送る上で必要な指導をしたら行き過ぎた指導や体罰扱い。
- 自分の子供を叱ったら、虐待、毒親扱い…
などの話は一度ぐらい見聞きしたことはあるだろう。
それこそ、昭和でおおらかな時代であったら「こんなことで文句を言う人の方がおかしい」という論調の方が主流だったとは思うが、今はその真逆を突き進んでいるように思う。
やや極論だとは思うが、何かの被害者ポジションになる人に対していかにして相手を傷つけず、怖がらせないように振舞うことが、今の世の中で求められる。
誰も傷つかず、誰も不快にさせず、とても優しくて平和であること…が、コミュニケーションの基本となるが、その水準がどんどん高くなればなるほど「いちいち言葉や態度一つで加害者扱いされるような世の中の流れに付きあってられっか」と感じる人も出てきておかしくないだろう。
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配慮に疲れたくないから無言・無関心を選ぶことが合理的になる事の弊害
と言っても、そこであえて乱暴な言動に舵を切る人はごく稀であろう。
しかし、その代わりに配慮すること含め、関わるとめんどくさいことになりそうな要素や特徴を持っている人となるべく付き合わないことを選ぶことに舵を切る。
配慮が必要な立場の人に対して無視・無言・無関心を選べば、あれこれ配慮をするために頭を悩ます必要はなく合理的である。
あらゆる場面で過敏に反応してしまうような繊細な人は放置。逆に、多少のことでは対して動じない鈍感でおおらかな人の方が、コミュニケーションにかかる精神的なコストが少なくて済む。
普段の生活で付き合える人や時間に上限がある以上、配慮が必要な人は無視の対象。逆に配慮の必要でない人の方が人付き合いでうまく行き、生きやすい世の中になる。
世の中で配慮すべき属性が増えれば増えるほど、意識的に配慮する人と関わらず無視する人の差が生まれるのではないか…と私は懸念している。
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配慮をしても恩恵を感じにくく不公平感の方が強い
配慮に疲れる理由としては、配慮をする側が恩恵を感じにくく不公平感が募ることも考えられる。
配慮は精神的な負担であり、自分の行動を制限するという苦痛を伴うものである。もちろん、その苦痛の結果、何らかの金銭的・心理的な恩恵があれば納得できるものだが、中にはただ負担を強いられるだけでその恩恵を受けられないケースもある。
また、配慮を受ける側が配慮される環境に甘んじてつけあがってしまい、個人的なわがままや言いがかりまでも「配慮が必要です」と言い出そうものなら「いい加減にしろ、もうあなたに配慮なんてしてやるか!」という気持ちになることもあるだろう。
「配慮したら恩恵を受けたどころか損をした」という経験をした人が、その後も配慮をすることは難しいだろう。
配慮疲れをなくすには、配慮を受ける側の意識改善も重要だと思う
最後に、配慮を受ける側の人にとっては厳しい意見だとは思うが、配慮を受ける以上それに対して感謝する姿勢や貢献する姿勢、配慮する相手と協力的な関係を築こうという姿勢を持つことは重要だと思う。
何かと与えられてばかりの環境というのは非常に居心地がいいし、なんだかチヤホヤされているみたいで、つい自分の中の甘えや怠惰を許容しがちになってしまう。
おまけに、配慮が必要である立場…つまり、社会的に弱い立場であることを悪用すれば「え、社会的弱者の私に対して傷つけるようなことを言うんですか?」というような、卑怯な手を使い相手をコントロールすることもできてしまう(まぁ、相手はめちゃくちゃ嫌がると思うが)。
配慮が必要な人は立場の弱さや自分の能力の低さを嘆き呪うのではなく、むしろそれらを克服しようという姿勢を持つ。今のなんでもかんでも優しさで覆うかのような風潮に真っ向からぶつかるとは思うが、これこそが私なりに生きづらさを克服する一つの方法だと思う。
最後に余談だが、いわゆるHSP(繊細さん)を自称する人が煙たがられるのも、こういう弱者の立場に居座り配慮を求めてくる割には、相手と協力的な関係を築こうとせずお客様気分で人間関係の美味しい部分だけいただこうとする魂胆が見透かされているからだと思う。
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