私が一応でもクリエイティブ職(芸術系に近い)であるためか、なにかと初心者に向けて教えたがる人と出くわすことがこれまで多々あった。
失礼を承知で言うがえてして教えたがりな人は、その道で実績なり実力なりがあると言われれば…そうではない。どちらかといえば初心者に毛が生えた程度の実力。悪くいえば自分を有能だと勘違いしている無能な人という傾向を感じることが多かった
今回はそんな人を見ていて感じた、無能な人ほど教えたがりになる理由について、個人的な見解を語ろうと思う。
(※もちろん、何事にも例外はあるのであくまでも傾向の話だということで、この記事を読んで頂ければ幸いである。)
そもそも能力のある人は誰かに何かを教える時間と労力が割けない状況にあることが多い
まずはじめに、そもそもその道で能力なり実績なりがある人は、誰かに何かを教えるだけの十分な時間と労力が割けない状況にある。
また、実際に人に教えるよりも今自分が抱えている仕事をしたほうが稼げる…というシンプルな理由で教える事よりも目の前の仕事に専念しているのだ。
なお、ここでは講師業や職業としてのyoutuberなどの、人に何かを教えたり情報を発信する事をメインの仕事にしている人は含まないものとする。
無能だけど承認欲求の強い人ほど、安易な教えたがり行為に走る
私が思うに無能な人は有能あるいは普通の人が、仕事によって周囲から認められたり、誰かの役に立っている…という、当たり前のように経験するであろう事を経験をすることが少ない。
だからといって認められたいという気持ちを抑えることはできず、どこかで誰かの役に立ちたい、公私関係なく自分の存在必要とされ認められたいという気持ちがグツグツと湧き出ている。
しかし、周囲を見渡せば自分よりも能力も実績もある人が多い。そして有能な人たちがいるせいで、自分の活躍できる場を奪われていることを痛感すると同時に、「誰かの役に立ちたい」という願望が到底達成できそうにないという現実に悩まされるのだ。
そういう無能であるがゆえに鬱屈とした気持ちを抱えている人が行き着く先が、シンプルに自分の能力を磨く…となるのではない。とりあえず今の自分の実力でも注目してくれるような人を探すべく、とにかく行動してしまう。その行動のひとつとして「教えたがり」があるのだろうと考えている。
人に何かを教えることによって生じる人間関係は、ひねくれた見方をすれば教える側が主役であり、スポットライトを浴びる側であり、注目され承認を集める側である。
また、教えるという行為そのものが尊い行為である。つまり、人に施しを与えるとか、人を助けるという道徳的・社会的な高評価を得られやすい行為であるため「あなた実は自己満足や利益のために、誰かに何か教えているのではないよね?」というような鋭い指摘がされにくい側面もある。
このように、自分の後ろめたさを指摘するような声を遠ざけつつ、個人的な欲求を満たせる側面もあるのが教えるという行為である。
だからこそ、努力嫌いであるがゆえに無能であり、且つ自分の実力を認めてもらいたくどうしようもない人は、安易な教えたがり行為に走るのだろうと私は考えている。
教えたがりとビジネス系youtuber・インフルエンサーについて
無能な教えたがりな人が行き着く先として、SNSやyoutubeの存在がある。これらのネットツールには、無能で無名な人が何らかの拍子で一躍注目の的になれる可能性が秘められているといえよう。
実際にビジネス系youtuberやインフルエンサーが、仕事、健康、政治、ライフハック、人生訓などを投稿している人たちが多くの反響を集めている光景を見れば、「ひょっとしたら自分もあ成功者なれるかもしれない」と無能な人が夢を見るのも自然だと思う。(夢見る時間を自分のすべき勉強のために使えばいいとは思うのだが…)
しかし、このブログで何度もビジネス系youtuberやインフルエンサーについて懐疑的な記事を書いているように、教えたがりな人は数字欲しさに極端な意見や論調、煽り気味な内容や誇大広告といい勝負をするような調子で情報発信をする傾向がある。
つまり、炎上を通り越して「迷惑系○○」という汚名がつきそうな調子で情報発信をしがちなのだ。
もちろん、このような極端な情報発信になるのは、無難な内容では注目されないというシンプルな理由があるからだ。
とにかく認められたい。今すぐ認められたい。そのためには、事実を盛りに盛ったり、都合の悪い情報はあえて触れなかったり、「科学的に証明された」という通販番組でよく聞く言葉のように説得力だけはありそうに他人を誤解させる言葉を使う…などの、自分を権威づけていく行為に走りがちだ。
そういう見せかけばかりの自分をよく見せることに注力してしまうのは、他人事ながらなんとも残念だと思うが、この手の見せかけを見せかけだと見抜けない盲目的な人も、思いのほか多いのもまた事実である。
最後に
もちろん、私が個人的に「無能」だと思っているだけで、見る人から見れば有能で有益な事を言う人だと思っている。つまり、お互いに需要と供給が噛み合っているという解釈もできる。
しかし、この手の人間関係は盲目的であるがゆえに、次第に本当に有能な人であったり、普通に生活している人を嘲笑するような方法で結束を固めては増長していく傾向がある。
自分たちの関係の中で満足してれいばいいものの、何かにつけて会社員を否定したり、大学教育を揶揄したり、安定で堅実な生き方をしている人の不安を煽ったり、自分たちが如何に常識や過去の慣習の恩恵を受けているかを無視して雑に批判したり…と言う具合に、意味もなく敵を作るような言動に走ってしまう。
結果本当に有能な人はおろか、普通に、そしてまっとうに生きている人からも疎まれるようになる傾向が見られる。
そうやって気が付けば自分の周りに敵が増えてきた人に響くのが「かかわってはいけない人○○選」という類の動画なのだろう。
自分が他人から見てかかわってはいけない人だと思われている事には気づかず、自分の方から人間関係を切ろうとする。なんだか、恋人から振られる前に振るような人に似ているものを感じてならない。