努力を見せたくないと感じる理由と背景について語る

学校・教育関連
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私自身比較的努力家な方だと自負しているが、一方で努力を人に見せびらかすような真似はまずしない。

といっても、中学受験のために学習塾に通っていた頃は、10代で始めて自分の人生を大きく左右する「受験」という一大イベントに取り組む緊張感もあってか、学校などで努力を自慢げに語っていた事があった。しかし、それ以降は極力努力は他人に見せないようにしている。

今回は、そんな努力を見せない理由について私の経験も交えて、個人的な見解を述べようと思う。

 

努力を肯定的に見る層と見ない層がいるのを理解してから努力を隠すようになった

私が中学受験のために通っていた塾は地元でも大規模な進学塾であった。最低でも週に4回は通塾し、休日は朝早くから夜まで塾にこもりっきりという、小学生にしてはかなりスパルタな塾であった。

当然そんな塾にかよっている生徒は、ある程度受験勉強に対する覚悟ができている生徒が多く占めていた。とくに私は塾内でも中の上のクラスにおり、勉強するのは当たり前という雰囲気に強く染まっていた。

一方で私が通っていた小学校は、普通の公立の小学校でクラスでも本格的に塾通いをさせている子は当時は少なかった。勉強一色という校風ではなく、公立らしくのびのびと育てるというよくある校風の学校だった。

当時の私は塾の宿題が多いために、普段の学校の休み時間中に塾の宿題を片付けるという時間の遣いかたをしていた。もちろん、これは時間の有効活用でしていたことだが、半分ぐらいは塾の勉強している自分を見て欲しいという欲もあった。

しかし、こうした軽率な行動はクラスメイトの癪に障っただけでなく、担任の先生にも反感を食らってしまい、原則塾の宿題を休み時間中にするべきでないと厳しく叱られた。(もちろん、授業中にもしていない)

 

なお受験勉強の結果、晴れて第一志望の中高一貫の進学校に合格した。進学した先では、当たり前のように勉強するし、部活にも励むし、課外活動や学校行事にも積極的に取り組み、努力することが当たり前という環境で10代の大半の時間を過ごした。

こうした経験が大きく影響してか、世の中には努力を肯定的に見れるタイプの人間と、肯定的に見れないタイプの人間がいる、という考えが今の私には染み付いている。

 

 

努力したがらない人が多い環境では努力を大っぴらに見せないほうが無難

努力を肯定的に見れる人は全体で見れば圧倒的に少数派であるし、努力があたり前だと思っている人たちばかりが集まっている組織・集団はごくわずかである。

いわゆる「好きなこと=仕事」と見られやすいクリエイティブ職な私でも、「好きなことだからこそもっと頑張らなきゃ」という人は、今まで出会ってきた中では少数派であった。多くは「好きなことぐらいしか仕事にできなかったし、ほどほどの働きでいいや」という、なんとなく努力(というかストレスのかかること)が苦手そうな人が多かった。

もちろん、これはクリエイティブ職だけでなくほかの仕事でも同じだと思う。大抵の人は努力はしたくないし、できれば楽して生きたいという考えで生きている。

そして、努力に対して後ろ向きな人が主導権を握っている組織ほど、私はあまり努力をおおっぴらにすべきでないと考えている。

 

その理由は以下のとおりだ

  • 努力をしていない人は、努力している人の姿を見るだけで、自分自身を否定されたと感じやすい。つまり、敵認定されやすい。努力しなくてもいい理由を探している人ほど、努力が当たり前と考えている人の存在は目障りだからだ。
  • 身近な人が努力していればいるほど、その人に対する憎悪や嫉妬、嫌悪の感情が距離感の近さ故に湧きやすい。
  • 努力する人をいいように利用して、更に楽しようとする傾向がある。つまり、いいように使われるだけの存在に成り下がるリスクがあるので、適度に線引きをする必要性がある。
  • 努力する人の脚を引っ張り、自分達と同じ努力しない人側に引きずり込もうとする。集団の多くの人が努力を軽視する文化に染まっている場合だと、この傾向は強くなる。

 

努力を見せても大丈夫な相手と環境をよく選んで努力を小出しに見せるのが無難

普段努力していない人は、身近な人が努力して裕福になる様子や社会的地位を獲得する光景を見ると「自分と同じはずだったのに、あいつはあれだけ偉くなってるのか…」と自分の努力不足からくる精神的苦痛を感じる。

もちろん、その苦痛を自分一人でうまく処理できれば問題はないのだが、努力できない人の中には、自分と同じと思っていた人間をあらゆる方法で堕落させることで、苦痛を紛らわそうとする人がいる。

とくに、今まで何も積み上げずに生きてきた人。その癖一発逆転を狙っているような、世の中を甘く見ているタイプの人には、この手の他人が手にした利益を帳消しにしようとする傾向が強い。(…まぁ、かなりひねくれた考えだと私自身も自覚してるが)

 

そんな私から言えるのは、努力を見せるべき相手や環境、場面はよく選ぶことである。

努力するのがあたり前という雰囲気を持っている人や、努力しない人のほうが圧倒的少数派なスパルタ集団(規模の大小は問わない)であれば、むしろ安心して努力を見せても良い。

先行き不透明な時代背景も影響してか、近頃は「ありのままでいいよ」とか「頑張らなくてもいいんだよ」というような、間接的だが努力をさせない方向に誘導する考えが浸透しており、その流れに逆らえず努力しない自分を自己肯定する人も増えているように感じる。(それで自己肯定感が付くのかが謎だが)

しかし、そういう人たちに対しては、極力努力を見せるべきではない。見せるべき相手は「ありのままの自分なんか御免だ」というテメエの芯が通っている人に、さりげなくでいいから見せるべきであろう。

もちろん、見せかけの努力だけでなく確かな実力・実績を獲得した上でやるべきだ。

 

最後に、努力するのが当たり前になるとどうなるか?

色々書いたが、努力するのが当たり前になると、他人に努力を見せたいという気持ちは自然と消えるてしまうようになる。この現象は、私の経験からくる結論とも言える。

ただ相変わらず努力を見せるべきではない相手には滅多に見せない。だが、見せてもいい相手には別に「努力を見せたい」という感情はあまり湧かず、むしろ結果を見ていただきたいという考えになった。

まぁこうなるのは、仕事だから努力を評価してほしいって懇願するのは変だという考えが影響しているのだろうと分析している。