もう十数年以上昔の話になるが、私は大学進学の際に自分の偏差値よりはるかに下の大学に進学してしまった。そんな過去の出来事を、今でも時々後悔することがある。
なお、私は偏差値で言えば当時70以上あった高校で中の上クラス。それなのに、地方の無名国立大に医学部進学ではなく教育学部になんとなく進学してしまったという才能の無駄使いみたいな進路選択をした人間である。
そういうアホみたいな人間を反面教師にして頂くためにも、志望校を下げて進学して後悔したことについて語っていこうと思う。
話題や文化があまりにも違いすぎて浮いてしまう
私が進学した大学は、高校の時に受験勉強を頑張らなかった結果として来る人や、滑り止め目的の学校しか合格できなかった人ばかりが集まるような位置づけであった。一応でも国立大学だが、文化的にはFランク大学に近いものがあったと思う。
実際に留年生も多くいたが留年していることへの危機感が薄く、のほほんとクズな自分を肯定する雰囲気を持つ人が多いことに私は驚きを隠せなかった。
そういうのほほんとクズな自分を肯定する空気があるためか、進学校で皆当たり前のように勉強の話題や生産的な話に慣れ親しんでいた私は一種のカルチャーシャックを受けた。
「同じ年齢なのにしっかりしている学生とそうでない学生にはこんなにも差があるのか…」という、人間の質としての差を感じた。
油断しているとだらしのない文化・習慣に毒され留年しそうになる
ただまぁこういう緩みきった雰囲気は、受験から開放された大学生であれば誰もが味わうことだと思うとは思うし、高校の時とは違って俗っぽくなること大学生の特権みたいなものであると思う。
しかし、俗っぽい話をするにしてもいきなりギャンブルや色恋沙汰、ゲームや受動的な遊びなど、言っちゃ悪いがだらしなさに繋がるような文化に触れまくることは、個人的には身を滅ぼしかねないと思う。
なによりのほほんとクズな自分を肯定する雰囲気があるので、この手の身を滅ぼしかねない娯楽までも肯定し、留年(場合によっては退学)などの形で残るのは非常によろしくない。
幸いにも私は留年せずに卒業できたが、油断したら自分もあの文化に毒され留年してしまっていたのでは…と思う出来事が度々あったのも事実だ。
大学生と言っても多くの人にとっては就職までの準備期間である以上、ある程度就職に力を入れているとか、主体的に活動しているであろう学生が多そうなランクの高い大学を選ぶことが今にして思えば重要だと感じる。国立なのに学校の文化はFランク大学みたいなことも普通にある。
同級生の人脈・コネのランクも下がる
大変失礼で卑しい主張だが、同級生の家庭や人脈もまた、高校時代とは違ってランクが下がっているように感じてカルチャーショックだった。
まぁ、高校時代が異常で大学時代が標準的と言えばその通りなのだが、今まで進学校に行くような文化資本や社会資本を持っている人たちとは違う家庭環境や人脈を持っている人たちとの関係は、正直言って耐え難いものがあった、
もちろん、他人を品定めしたりランクどうこう気にする私の方が異常であることは重々承知ではあるが、もし仮に大学のある場所で就職して、ランクの下がる人と関わりを持つことをイメージすれば…と考えると、たいへん申し訳ないが厳しいものがある。
ちなみにだが、私が進学した地方国立大学のある県は、毎年若者の流出が激しく県内にこれといった産業や大手企業もなく「優秀な人は皆県外に出て行って、残っているのはうだつの上がらない人かやる気のない人ばかり」みたいな話をよく耳にした。
ここまでなると志望校を下げるどうこうよりも、都道府県レベルでの教育や経済格差の問題と言ってもいい。
他府県への進学の際は、その大学がある都道府県と自分が今住んでいる都道府県との教育・経済の差、人の流れの特徴についても調べておくことが重要であろう。
最後に
私がなぜ自分の進路をここまで下方修正したのかといえば、最低限国立ならどこでも良かった、ただモラトリアムを享受したかったという姿勢や、自分の人生に対してあまりにも投げやりだったことが大きな理由である。
ただ不幸中の幸いというか、(当時の自分の中での基準からすれば)格下の大学に進学してしまった結果、競争心や向上心に火が付き、受験での失敗を社会人になって仕事で取り戻そうという意欲に繋がったのは結果オーライだと思う。
もちろん、途中で意識高い系学生&社会人に巻き込まれて苦労した経験はやはり痛手以外の何物でもないが、そんな経験があったからこそフリーランスで活躍する上での人を疑う事の重要性がわかったのはこれもまた不幸中の幸いなのかもしれない。
関連記事