勉強が苦手な人なら子供・大人関係なくあることだと思うが、あえて自分を追い込むような状況にならないとなかなか勉強に取りかかれない…という癖がどうしてできるのかについて、個人的な考察を述べていこうと思う。
追い込まれたけどうまくいった成功体験がクセになっている
追い込まれないと勉強できない癖は、基本的に悩みの種であろう。できれば改善したいと思う人が大半であろう。しかし、なかなか改善できないことでまた悩む…という一度で二度苦しいという対面面倒な悩みである。
では、なぜその悩みが解決されないのかというと、仮説ではあるが一度追い込まれて勉強した結果、案外上手くいってしまった成功体験がある…ということが考えられる。
たとえば、学校の定期試験のような(後述するものと比較すれば)人生における重要度の低いものや、内容的に比較的易しいものの場合、人によっては一夜漬けで赤点を回避できるぐらいの点数を叩き出せることもある。場合によっては平均点、いやそれ以上の点数を叩き出すこともある。
ほかにも追い込まれて余裕がない中で山勘を張って勝負に出た結果、案外どうにかなった…という成功体験や、クラス全員のテストの点数が悪くて平均点が非常に低いために、ロクに勉強してない自分のヤバさが相対的に見て目立たなかったというラッキーな経験もクセになる要因として挙げられる。
そういった幸運に助けられた成功体験を一度でもしてしまった結果、追い込まれないと勉強できない癖に悩みつつも、心の憶測で「またラッキーでどうにかなるかも?」という甘えが生じてしまい、勉強を先送りにしてしまうのだ。
だがしかし、それを受験や就職活動、大事な仕事にまで当てはめようとしてしまうと取り返しのつかない事態になってしまうのは言うまでもない。万全に準備して失敗するのならまだしも、油断と慢心を重ねて失敗しているのだから、周囲の目までも厳しくなるのは明らかである。
追い込まれたときの精神的負荷、刺激がクセになっている
追い込まれないと勉強できない人には、ある程度ストレスが無いと勉強できない。
それも、どこかスリルというか、尻に火がついているような状況の時に感じる緊張感が癖になっているケースもあると思う。要するにチープなスリルに身を任せる快感がクセになっているのだ。
やや中二病的な文章になるが、「追い込まれている瞬間って、なんだか退屈な日常から開放されて、本当の人生を生きているって気がする」と感じているのではないかと推察している
ただ、個人的にはそのスリルを自分の人生を大きく左右するような勉強に取り入れるのするのはおよそ推奨できるものではない。
可能なら他人とまっとうに競争・対決するスポーツで味わうのがいいと思うが、えてして追い込まれないと勉強できない人は性根の部分が怠け者であるため、わざわざスポーツで汗を流すことを好むようには思えない。
ダラダラする習慣が日課となっているので勉強よりダラダラを優先してしまう
上からの続きになるが、追い込まれないと勉強できない癖のある人は、性根の部分が怠け者である。
しかもただの怠け者ではなく、律儀にダラダラすることを日課として取り入れており、且つその日課を崩されることを嫌がる…という、真面目にダラダラする部分がある。
その結果テストや受験においても、すべき勉強を後回しにして普段の生活習慣通りにダラダラすることを優先する。
また、ダラダラする事が習慣として染み付いている年月が長ければ長いほど、それを改善していくハードルは高くなる。
そして何度も言うが性根の部分が怠け者であるため、生活習慣を改善する気力はなかなか起きないし、仮に改善できたとしても長続きしない。結果、日課のダラダラが残り続け、自分で自分を追い込む習慣も定着してしまうのだ。
余談 追い込まれないと勉強できない人同士でつるむことの弊害
最後にだが、今やネットを使えば同じように追い込まれないと勉強できないことで悩んでいる人と繋がり、悩みを共有したり、話し合って共感することも(その気があれば)容易にできる。
これは現実世界で生きづらさを感じている人にとっては幸せなことかもしれない。
しかし、その一方で同じような悩みを抱えている人達に囲まれた結果、自分の悩みを深刻に見れなくなり、どこか安心感のようなものを抱いて現状維持を貫いてしまうという怖さもある。
とくに勉強は、多くの場合は自分の人生の進路に関わる重要な場面で避けて通れないものである以上、同じく追い込まれないと勉強できない人達と交流を重ね「あ、別に勉強なんてしなくても普通に生きていけるんだ」という考えに至ることは、私個人の意見としては恐ろしいものがあると思う。
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