「人間関係を良好にするために相手のことを褒めましょう」と書いている記事なりメディアは多いし、褒めることは基本的に良いことなので、すくなくとも人間関係において害になるものと考える人は少ないだろう。
しかし、私が思うにそれも限度がある。まるで相手を持ち上げるかのように過剰に褒める人は、それはそれで人間関係がなんかこじれてしまい、失敗してしまう…ということは普通に起きる。
今回はどうしてその現象が起きるのかについて語っていこうと思う。
なお、「褒め殺しになっている」「褒め方が不自然過ぎる」「褒めるというよりは相手を子供扱いしている、小馬鹿にしている」という、よくある理由以外についてこの記事では触れていく。
「褒めてくれるから存在価値のある人」になりそれ以外の価値が手に入らなくなる
褒める人というのは基本的には人間関係においてはありがたがられやすい。貶したり、厳しいことを言うような人と比較すれば、どことなく味方感があり、安心できる人、価値のある人と見られやすい。
しかし、過剰に褒める人は過剰に褒めるがゆえに「その人の価値=褒める」という印象になりやすい。つまり、褒めること以外の価値を獲得できなくなるために、いざ褒めるのをやめたりためらうような状況になると周囲から失望される&自身の価値喪失に焦る。
その結果、人間関係でどことなく居心地の悪さというか、うまく噛み合っていないものを感じてしまい、失敗してしまうのだ。
ただし、そういう過剰に褒める人でも唯一馴染めるのが、承認や肯定に飢えていて、褒めるとすぐ喜ぶような精神状態に陥っている人である。
しかし、後述するようにこのような過剰に褒める人とそれを強く喜ぶ人とで構成されるコミュニティは、多くの人にとって敬遠の対象になりやすいという問題があるのだ。
「過剰に褒める癖がある人」と「褒められてすぐ喜ぶ人」と一緒にされたくないと思う人は多い
大抵の人は褒められたら嬉しいものだが、その一方で「過剰に褒める癖がある人」と「褒められてすぐ喜ぶ人」と一緒にされたくないという、一見すると相反する感情を併せ持っているものである。
「褒められたら嬉しいが、それでも限度はある。なんでもかんでも褒められてすぐに喜んでいるようでは、まるで自分が精神的に幼稚な人、チョロ過ぎる人みたいで恥ずかしい」というような感情を抱いている。
だからこそ、褒められて嬉しい気持ちと「過剰に褒める癖がある人」と「褒められてすぐ喜ぶ人」と一緒にされたくないという嫌悪に近い気持ちの両方を持っているのだ。
そのため過剰に褒める人は、多くの人が抱く嫌悪に近い気持ちを刺激するので、表面的には感謝されるかもしれないが、実際はどことなく距離を置かれることが多い。
言い方は悪いがまともな人間関係に馴染んでいる人ほど、過剰に褒めるような人は歓迎されず、承認欲求に飢えているためにトラブルを起こしそうな依存気質な人からは歓迎される。そんなトラブルメーカーに好かれるから人間関係に失敗してしまうのだ。
過剰に褒める人は一種のスパムメールみたいな存在である
誤解を恐れずに言えば、過剰に褒める人は一種のスパムメールみたいな存在…つまり、こちらの事情を考えず迷惑をかけてくる存在なのだ。人によっては品のない人と見られてしまうこともある。
ただ、一応でも褒めるという非難されるようなことではない行動をしている以上、「迷惑です」とはっきり言う人はいない。
仮に言おうものなら「褒め言葉を跳ね除けるような変な人」という悪印象が付くので、普通はしないものである。
結果、過剰に褒める人は過剰に貶したり悪感情をばらまく人と違って、自身の行動にブレーキをかける人がなかなか出てこず褒めるという名のスパム行為がエスカレートしやすい側面があるのだ。
最後に 良いお金の使い方と褒め方の関連性
余談だが、過剰に褒める人はある意味お金配りをする人と似ている部分があると思う。
お金配りをする人は、ぱっと見は華やかで周囲に人が多い。しかし、実際はお金を配るときだけに人が集まっているだとか、地位はあってもあまり尊敬の眼差しを受けていないだとか、「お金配りに群がる人と一緒にされてなるものか」というような意識を人に芽生えさせるなど、華やかでもきらびやかでもない部分がる。
これはシンプルにお金の使い方が下手であるために起きている現象だと私は見ている。いくら巨万の富を得ようとも、その使い方が下手であれば尊敬を集めるのは難しいものである
過剰に褒める人は、お金配りをする人で言うとこのお金の使い方が下手という部分に共通点があるように思う。
つまり、褒め方そのものがどことなく浅いというか、インスタントというか、順序を無視しているというか…うまく言葉にしにくいが、もっと時間をかけてコツコツとやればいいのに、スピード感を求めて安易な褒め方をしてしまうから、人間関係に失敗するのだと私は見ている。
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