自分と相性がいい人を探そうとする人が陥りがちな失敗について説明する

人間関係・コミュニケーション
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この記事は「人間関係を選ぶ生き方で失敗してしまう人の特徴」の続編である。

生きづらさを訴える人が増えてきている昨今、自分にとって心地の良い人間関係を求めて行動したい人に応えてか「自分と相性をいい人を見つけるための方法○選」とか「絶対に関わってはいけない人○選」みたいな情報を目にすることが多くなった。

私はこの手の自分にとって相性のいい人を探す情報が増える&その情報に則って行動する人が増える事は、決して良い結果をもたらすばかりだとは思わない。むしろ、生きづらい人が余計に生きづらくなる結果になるのではないかと思うことすらある。

今回はそう感じる理由について個人的な見解を述べていこうと思う。なお、この記事で書いたことは恋愛に限らず友達関係、仕事の人間関係でも言える。

 

 

自分の精神安定のために他人の時間と労力を消費していることに気がつかない

まずはじめに、自分と相性がいい人を探そうとする人の多くは人間関係に振り回され、傷つけられ、心身ともに疲れた…と言った、何かしらの人間関係に関する悩みを抱えているであろうことが想定できる。

そういう悩みがあるからこそ、疲れない、振り回されない、傷つけられない関係を求める。自分にとって安心できて、癒されて、ストレスの少ない関係を求めるのは自然なことである。

しかし、えてして人間関係に摩耗している人は、自分を癒すことを第一目的として自分にとって都合のいい人間関係を求める行動に走りがちである。

つまり、自分の精神を安定をさせるために他人の時間と労力をただ消費する…というような、相手の意向を無視して自分の主張だけを押し通すようなわがままな人間関係を構築しがちなのだ。

そして厄介なのが、当の本人には自分が他人の時間や労力を消費している(=自分が他人を疲れさせている)という実感が無い、あるいは鈍い。そのため、後述するような出来事が起こるのだ。

 

 

「自分が人間関係を疲れさせている側である」という可能性について想像することがないので自己中心的になりやすい

人間関係をまるで自分を癒すためだけに利用しようとする関係には、当然ながらお互い様や助け合いの精神が存在しない。

むしろ傷ついた心を癒すことた精神の安定が目的となっている以上、お互い様の精神を求めようものなら「自分から時間や労力を搾取するの?」とか「あ、やっぱりこの人も自分を疲れさせてくるのか…」というような態度を取る。

場合によっては精神的ハンデを示す肩書き(自称HSP、自称ADHD、豆腐メンタル、コミュ障など)うぃ盾にして、自分にまっとうな指摘をする人の良心に訴えかけるという卑劣かつ卑怯な手法を取りつつ、被害者ポジションに居座り物言う弱者になるという振る舞いをすることもある。

 

一言で言えば自己中心的。それも、何らかの弱者or被害者であることを利用した上でわがままに振舞う狡猾さもある。おまけに、自分が他人を疲れさせているという自覚が無いor薄いので、関わるとなれば非常に厄介でヤベーやつあることは言うまでもない。

そのため、初めは印象がよかったとしても関わるうちになんとなく相手から嫌がられて距離を置かれるようになる…が、厄介なのはここで「自分のせいで他人を疲れさせてしまっていたんだ」と反省できないことだ。

むしろ「なんか知らないけど勝手に相手が不機嫌になって離れていってしまった」と具合にナチュラルに解釈してしまい、自分の思考の癖や問題点に気づかないまま別の人間関係で同様のトラブルを抱えることになるのだ。

 

いわゆる育ちのいい人から敬遠され、トラブルが起きやすい層の人と関わる場面が増えてしまう

「自分と相性をいい人を見つけるための方法○選」という記事の中には精神的に柔軟な人だとか、しっかりしてる人だとか、他人を理解してくれるだけの思いやりを持った人だとか…と、いわゆる育ちのいい人を相性のいい人だとして紹介する記事は多い。

もちろん、育ちのいい人は確かに育ちがいいのでトラブルを起こすようなことは育ちの悪い人と比較して少ない。しかし、トラブルを起こしそうな人にまで寛容であるとは限らない。

むしろ、ちがいいからこそ、性格的にめんどくさい人を入れたくないし、仮に近づこうとしてきたらそれっぽい理由をつけてやんわりと追い出そうとするような部分を持っている。

育ちのいい人が付き合うのは、同じく育ちのいい人。問題を起こしそうな人と極力付き合わない。仮に付き合った結果、同じく育ちのいい友達や知り合いに被害が出るようなことになれば自分の沽券に関わる。なので、めんどくさそうな人に対して容赦しない‥と、中学受験中高一貫の進学校に進学し、いわゆる育ちがいい人たちと関わることが増えた中で感じることがあった。

こうした経験があるからこそ、いわゆる育ちのいい人から敬遠される要素がある人は、育ちのいい人からは拒絶されるべくして拒絶され、比較的育ちの悪い人と一緒にならざるを得ない。

もちろん自分ひとりで自分を癒せるというやり方もあるにはあるが、人間関係に疲れた人の多くは孤独になるぐらいなら別の人間関係で癒しを得ようとする方が安心感が強いので、それは叶わぬ夢なのだろうと思う。