すぐ「マウントされた」と感じる人について思うことを語る

人間関係・コミュニケーション
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この記事では、普段の生活の中ですぐに「マウントされた」と感じる人について個人的な見解をつらつらと述べていく。

なお、普段からなんとなく見下されたとか、劣等感を抱くことが多い人の心に優しくない内容になっている。そのことを理解していただいた方のみ読んでいただければ幸いである。

 

「マウントされた」と感じる基準が異様に低い

すぐ「マウントされた」と感じる人は、非常に繊細…というか考えすぎな部分がある。普段の生活の中では到底マウントとは考えにくいことであっても「あの人は私を見下している」とマウント認定する基準の異様な低さ、および被害者意識の高さが顕著である。

また、そうした強い被害者意識や姿勢は普段の生活の態度や言動に滲み出ていたり、悪い形で表出も目立つ。

例えば、ビクビクしている割には妙に女々しいプライドがあったりとか、劣等感を覚えやすい割にはその劣等感を利用して周囲の同情を惹くことで満足感を得ようとする狡猾さがある…などがいい例である。

そもそも顔つきがあまりよろしくない。いつもムスっとしているとか、覇気がないとか、どこか他人を疑うような目つきをしているとか…言い方は悪いが、ひねくれていたり、どこかこじれている印象がある。

そんな印象のため、関わる側からすれば「めんどくさい相手」と思われてしまったり、変に刺激しないために緊張してしまうのも無理はない。どことなくぎこちないというか、あまり親しくなろうとせず、そっけないorビジネスライクな関係になる。そうした、冷たくよそよそしい態度を向けられることに対して「あの人は自分を見下している」とマウントの気配を感じているのではないか…と思うことがある。

つまり、マウントと感じてしまう態度を向けられるのは相手の悪意でもなんでもなく、純粋な自業自得に過ぎない…と思う事があるのだ。

 

 

マウントされたと感じる人同士で共感することの功罪

とくにネット上では「マウントされた経験」は共感を呼びやすい。「いいね」をはじめとした数字を稼ぎやすいので、嫌な表現になるがいいね欲しさにマウントされた経験を堂々と語って満足感を得る(この世の地獄のような)光景は探せばあるものだ。

そういう満足感を強く味わえば味わうほど、マウントされたと感じる基準がズルズル下がるのも、ある意味自然なことだと思う。

もっと共感されたい、もっといいねが欲しい、もっと注目されてちやほやされたい…という類の願望を満たしたいがために、マウントという辛いはずの経験をいつしか自分自信が望むようになる現象にとらわれている。

だからこそ、普段他人と関わる度にマウントを感じる心理的なセンサーをフル活動させているのではないか…と感じることがある。

 

 

本当にマウントしているかどうかを確かめるのは非常に難しい

以前書いた「HSPの特徴「他人の気持ちが分かる」の違和感について解説する」にも通ずることだが、現実問題として本当にマウントしているかどうかを確かめるのは非常に難しい。

難しいからこそ「自分がマウントされたと感じたらそれが真実」という具合に妄想と現実の区別がつかなくなっているのではないだろうか。

内容的に「マウントされたかどうかを相手に確かめるのは難しいため、思い込みであるかどうか相手に確認したり、思い込みそのものを修正するのは難しい。

もちろん、思い込みを思い込みとして処理出来る人ならいいのだが、中には思い込みを真実として扱い処理する…それも「か弱い自分が感じた感情だからこそ、真実だと思いたい(=否定したらか弱い自分のメンタルが傷つくから真実と思い込む)」という具合にして、「思い込み=真実」として処理してしまっている人もいるのではないかと見ている。

 

 

「マウントされた」と感じやすい割に、コンプレックスを改善する気配がないのは何故だろう

「マウントされた」と感じやすい人は、何かしらのコンプレックスがある。それが容易に刺激されるからこそ、マウント認定の基準が低くなっているのろう。しかし、この手の人は自分が抱えるコンプレックスを改善しようとする気があまり見られないのが特徴的だ。

こうなるのは、現実と向き合い粛々と対応するよりも、ただ「マウントされた」と思い込んで妄想の世界に逃避する方が楽であることが影響していると思う。

しかし、楽な方向に逃げてばかりでは、劣等感はぬぐい去れないと思う。ましてやマウントされた者同士で味わう共感や手にした絆があると、ますます自分の醜さや弱さに向き合うことに苦痛を感じてしまい、楽な方へ逃げる癖が染み付いてしまいやすい。

 

 

余計なお世話だとは思うが「マウントされた」と感じやすい性質を変えたければ、やはり自分自信のコンプレックスと向き合い改善することは必要不可欠であると私は考えている。

いつまでも「マウントされた」と文句ばかり言う精神性のまま、歳を重ねアラサー、アラフォー、アラフィフになる…という、(悲惨な)未来に比べれば、自分のコンプレックスに向き合うことの方がマシだと思う。

無論、コンプレックスを乗り越えることに苦しみは付き物だが、その苦しさを乗り越えれば「なんで自分はあんな取るに足りないことに囚われていたのだろう」と前向きになれる日が来ると思う。