HSPの特徴「他人の気持ちが分かる」の違和感について解説する

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繊細すぎる気質をさすHSPだが、その定義が非常に危うく、いくらでも拡大解釈できてしまうものだと私は考えている。

そんなHSPの特徴の一種としてよく出てくる「他人の気持ちが分かるor気づける」というものだが、私はどうもこの特徴に違和感を覚えてならない。

今回はこの違和感について、個人的な見解を述べていこうと思う。

 

「女性は男性の視線に気づいている」の例を元にして「他人の気持ちが分かる」の違和感を説明

HSPは他人の気持ちがわかるという特徴に鋭くツッコミを入れるために、話は逸れるが「女性は男性の視線に気づいている」というあるあるネタ(※)について触れていきたいと思う。

何かの拍子でこの話題が出てくると、だいたい「女性は男性の視線を100%気づいているから気を付けよう」となるものだ。

しかし、この話は実は以下のような考え方もできる。

  • 男性の視線に気づいた時だけカウントしているから、「100%気づいている」となるのは間違いない。
  • ここでは自分が気づいていない数は含まれていないので、「気づいているかどうか」を基準に考えると、確率が100%になるのは必然。
  • 当たり前だが、死角から見られた場合はどう考えても視線を察知できるものではなく「気づいている」とカウントすることは不可能。
  • 妄想や憶測で「気づいている」とカウントできなくはないが、それは現実を正しく認識しているとは言えないし、妄想まで数値として扱うのは妥当ではない。
  • 「気づいていない」状況を自分で自覚するのは非常に難しい。そのため、この手の「○○に気づいているかどうか」に関する調査は、被験者自身で行うのではなく、第三者が行う方が精度は高い。

このことを元に考えると「HSPは他人の気持ちに気付ける」と説明されることに、ひとつの疑問が出てくる。

それは、HSPは他人の気持ちがわかった時だけ「自分は他人の気持ちがわかった!」と感じているのではないか。つまり、他人の気持ちに気づいていないケースは、カウントされていないのにもかかわらず「自分は他人の気持ちがわかった!」と考えているのではないか、という疑問だ。

 

※参考:【検証】「男のチラ見は女にバレバレ」ってホント?!

 

「他人の気持ちが分かる」けど、それが真実かどうかを確かめるのは難しい

もし仮に、繊細さゆえに他人の気持ちが分かったとしても、その気持ちを相手が本当に抱いているかどうかの真偽を確かめるのは非常に難しいという問題がある。

たとえば、相手が今まさに不機嫌でストレスが溜まっていたことが見てわかったとしても、相手に対して「今不機嫌ですよね?ストレスが溜まってますよね?」と臆面もなく聞けるだろうか。

それが上司や先輩のように立場が上の人であった場合、「今不機嫌ですよね?」と聞くのは相当に勇気がいるものだろう。

下手をすれば逆鱗に触れ大目玉を食らうかもしれない。呆れられて、集団内での居場所を失うかもしれない。

他人の気持ちが分かったとしても、その気持ちを実際に持っているかどうかを確かめるのは難しい。たいていの場合、気づいたとしてもそっとしておくか、相手にバレないように別の方法でそれとなく探るのが無難である。

もちろん、そのどちらも相手の本当の気持ちや真意を探れるわけではない。あくまでも相手の気持ちを正確に確かめられているとはいえず、察することはできただけ…という宙ぶらりんの状態でしかない。

そんな、確証も信ぴょう性も無い状態にもかかわらず「自分は他人の気持ちが分かる」と感じてしまうのは、言い方は悪いが他人の気持ちをわかった気になっているだけではないのだろうか。

果たしてそれは、繊細だとか優しいだとか呼んでいいのだろうか。むしろ、厚かましいとか、思い込みが激しいとか、妄想を勝手に膨らませてしまう‥と表現したほうが相応しいと思えてらならない。

 

無意識のうちに分かりたい人の気持ちだけ、理解しようとしているのではという疑念

最後に、HSP含め人間には共感を寄せやすい人とそうでない人が存在していることは、普段生活している中でうっすらとでも感じていると思う。

  • 自分の境遇に近い人には共感を覚えるが、接点や共通点が全然ない人には無関心。
  • 清潔感のある人はそもそも不快を抱く存在ではないので共感を覚えやすいが、清潔感がまるでない人には無関心あるいは軽蔑、敵視する。
  • 同じ主義・主張を持っている人には共感するが、相反する主義・主張を持つ人には反発する。

というように、共感一つとってみても、そのしやすさや感度にはバラつきがある。

これを元に考えるとHSPの人は、無意識のうちに自分が共感をしたい人や何らかの関わり・接点・共通項を持っている人の気持ちのみ理解しようとしている。

一方で関心や認知の外にいる人物にはそもそも「理解しよう」という気持ちが起こらないし、共感することもないのではないか…という疑念が出てくる。

非常に嫌な言い方になるのだが、とくに普通の人とは違うとは呼べないし、聖人や人格者のようなイメージでHSPを語るのは、かなり強引なのでではないかという根拠がここにあるのだ。