何者かになりたい病と繊細さん、HSPブームについて

HSP
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この記事は「何者かになりたい病の怖さについて語る」の続編である。

ここ数年で妙に流行っている繊細さんやHSP(繊細すぎる人の意味)ブームの背景には「何者かになりたい」という気持ちが強い人の存在があると私は見ている。

なお、ここで言う「何者かになりたい」とは、人よりも秀でた能力や特性、実績や人間性といった、憧れの目で見られることや、いい意味で注目を浴びるだけの何かを持っている人間になりたいということである。

今回は、この何者かになりたい病と繊細さん、HSPブームについて、個人的な見解を述べていく。

 

何も積み重ねることなく簡単に名乗れるのが繊細・HSPである

誤解を恐れずに言えば、自分で自分を繊細だとかHSPだとかを名乗るのは実に簡単である。

勉強ができるとか、スポーツが得意だとか、コミュ力があるだとかと違って、繊細であることはこれといった訓練も努力も不要で、名乗った時点で簡単に獲得できる。つまり、その気になれば誰でも今から名乗れる一つのキャラなのだ。

なお、繊細と似たものとして(自称)真面目、優しい、大人しいのようなキャラも同じである。これらはどれも努力しなくとも獲得できる。おまけに、何か自分に特筆した才能も能力も実績もない「無」そのものな人生を送ってきた人であっても、名乗って別に違和感を覚えることがないのが特徴的だ。

ただし、そもそもが「無」みたいな人生を送ってきただけに、自分で自分を繊細だとか、優しいだとか、真面目だとか名乗る人は、えてして他人から違和感を覚えられやすい存在である。察しのよい人であれば「なんとなくこの人は地雷臭がする」という具合の、嫌な予感をしてしまうタイプの人間とも言える。

なお、(自称)優しい人については以下の記事で詳しく触れているので、興味があれば読んでいただきたい。

「優しい性格が長所です」な人に残念なイメージが付く理由
自己紹介や就職活動の自己PRで自分で自分を「優しい性格です」という人に対して、どことなく良い印象がないというか、そもそも印象にすら残らず数分もすればその人のことを忘れてしまう…という経験をしたことがある人は、きっと少なくないと私は思う。 ...

 

社会不適合者な人が優越感と選民思想を持てるのが「繊細さん」である

これといって特筆すべき能力も経歴もなく「無」そのものな人生を送ってきた人は、自分自身が空っぽな存在であることに対して劣等感を抱きやすい。

実社会でも「無」みたいな人生を送ってきたために、周囲からの評価は芳しくない(あっても当たり障りのない「優しい」「真面目」程度である)。

あるいは、そもそも評価される場所すら行かず、社会からこぼれ落ちた生活をしている傾向がある。(例:引きこもりなど)

 

現代では、既存メディアだけでなくSNSやyoutubeなどで嫌でも自分よりも秀でた物を持っている人や確かな実績や評価・名声などを手にしており、何者かになっている人が当たり前のように目にする。他人との比較がいつでもどこでも起こりうる世の中だからこそ、「無」そのものな人生を送ってきた人であれば、余計にその人達と自分とを比較して強い劣等感を覚えるのだ。

そんな自分に対して虚しさを覚えている人が、半ば闇落ちするかのように繊細であることにしがみつく光景は、最近のHSPブームの中でよく見かける。

ここまで繊細であることに執着する裏には、以下のような理由があると思う。

  • 「実は世間で成功している人は鈍感な人であり、繊細さの観点においては自分の方が格上である」
  • 「世間一般で評価されている人達と比較して、繊細さからくる独自の視点で持っている自分の方が生物として優れている」
  • 「繊細さという選ばれた人間にしか理解されない、能力、感受性、共感性を自分は持っているんだ!」

乱暴な言い方をすれば、自分で自分をHSPだと強く信じ込むことで、優越感や選民思想に近い妄想を違和感なく抱ける。

そして今まで不遇な人生を送ってきたからこそ、実は自分の方が生物として、種として優れているという類の妄想を抱き、その心地の良さに溺れているのだと私は考えている。

 

繊細さんと酸っぱいぶどう

繊細であると強く信じることで、何者かになりたい欲求が満たされた人が、何故繊細でない人を下に見るかについては、イソップ寓話の酸っぱいぶどうの話(=防衛機制の合理化)が参考になる。

自分の能力や地位に見合わない物を得ようとして得られない時、人はその物の価値を貶めて心の平安を図ろうとする。 

参考:すっぱい葡萄

繊細であると強く信じる人は、酸っぱいぶどうの教訓に基づけば、自分が手にできなかった社会的な評価を得ている人を貶すことで、自分の惨めさや虚しさと向き合うことから逃れようとしている。

そのほかにも

  • 「実は自分の方が世間で評価されている人よりも高く評価されるべきだと考えている」
  • 「本当は社会的な成功を手にしたいと思っているけど、あえて社会的な成功を手にしている人を軽んじることで、未練を断ち切ろうとしている」
  • 「努力せず簡単に名乗れる繊細さんキャラが、世間で評価されている人と肩を並べるものだと思い込みたい」

などの心理があるという解釈も可能だ。

 

誤解を恐れずに言えば、繊細だとかHSPだとかを名乗る人は、いわゆる社会のレールに乗れなかった人が多いように感じる。

そんな人たちが束の間の優越感を得たいがために、似非科学、疑似科学、オカルト色の強い繊細だとかHSPだとかを名乗っている光景は、どことなくオウム真理教が活躍していた時代を彷彿とさせる嫌な気配を感じてならない。