HSPという言葉に甘えそうになってた頃の話をしようと思う

HSP
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繊細で敏感で共感力が高いという特徴を持つ、先天的な気質と言われている「HSP」だが、私は一時この気質のことを聞いて「私もHSPかもしれない!」という、希望や期待に満ち溢れた感覚を味わった。

だがしかし、現在ではHSPに対して懐疑的な見方を取るようになった。それと同時に、HSPがもつ「繊細なあなたはそのままでいんだよ」「HSPは感受性が高いし才能もあるからそれを伸ばそう!」という類の希望を抱かせるメッセージに甘えないようにしている。

今回は、そんなHSPという言葉に甘えそうになってた頃の話をしようと思う。

 

「HSPな自分=才能がある、優しい人」と自己陶酔しかけていた

HSPは感受性が高い、共感力が高いという特徴を持つことから

  • 平凡な人には見られないような、クリエイティブな才能を持っている。
  • 人間関係の機微を深く察知できるので、良好な人間関係を築きやすい。
  • 人の痛みや辛さに深く共感できる優しさ、人としての心の温かさを持っている。

など、とても才能が溢れており、善良な人であるかのように語られることが目立つ。

私も一応はクリエイティブ職の人間なので、繊細で敏感な部分な特徴に対しては「これ、自分にも当てはまるなぁ」と思うことがあったので、HSPという概念を深く知ったときには、どこか安心感というか喜びに近い感情を覚えたものだ。

しかし、今にして思えば、これは安心感というよりは自分に陶酔していただけだと思う。

「生まれながらにして自分には他の人よりも卓越した才能があり、それで人の心の機微を読み取れる素質のある人間だ」という類の、ナルシシズムの世界に足を踏み入れかけている自分の姿を感じてしまい、HSPに対して一歩引いた目で見るようになったのだ。

 

HSPの耳障りの良さは「HSPな自分は優れている」という甘えと奢りを生みやすい

HSPについて書かれれいる本や、ネットの記事、SNS、youtubeを見ていると、確かにHSPのせいで生きづらさを抱えているひとはいるけど、その一方でHSPがいかに優れているかを強く説いている情報も多く見られる。

そして中には「HSPは何も努力しなくてもありのままで優れている素晴らしい存在だ」とベタ褒めして自己肯定感を(こういう表現は嫌いだが)爆上げさせるかのような情報も見られた。

 

もちろん、そうしてベタ褒めに対して「いや、それは褒めすぎでしょ」と冷静にツッコミを入れられるぐらいに精神的な余裕があるのならまだいい。

問題なのは、HSPについて関心がある人の多くは、今の世の中に対して生きづらさを覚えている。当然精神的な余裕もなく、日々生きづらさの根源が何であるかを調べていくうちにHSPという耳障りの良い言葉・概念に出くわして「あぁ、自分が生き辛いのはHSPだったからなんだ」と感じる。

そして、HSPについて調べていくうちに「自分には素晴らしい才能があるんだ」「自分は落ち込むことはないんだ、今のままでいいんだ」と考えてしまう。

更にこの段階を超えてブレーキが効かなくなると

  • 「才能があるのにそれを生かせない社会の方に問題がある!」
  • 「私はこんなに他人のことを気づかえるのに、それを分かってくれない鈍感な人は見る目がない!」

という、勘違いを強めてしまう。

結果、余計に生きづらさを増してしまうことになるが、HSPである自分は「あくまでも自分は善良で繊細で傷つきやすい人なのだから、私の方が反省するのは間違っている」という態度を貫き通してしまう。そんな可能性があるからこそ、私はHSPという概念に甘えないようにしたのだ。

 

HSPに甘えると繊細チンピラになってしまう怖さがある

実際に、自分の身に降りかかる面倒事を全て「HSPな自分を理解してくれない周囲の人や環境が悪い」とふんぞり返れれば、気楽に生きられるかもしれない。

しかし、そんな姿は傍から見ればただの甘えた駄々っ子でしかないし、そもそも繊細を盾にして他人に何かを要求する姿は、繊細チンピラ以外の何者でもないと私は強く感じてしまった。

だからこそ、気を抜くと「あなたは悪くない、あなたが気を病む必要はない」と甘言を耳元に囁きかけてくるHSPという概念に対しては、今ではかなり否定的に見るようになっている。

 

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HSPに甘える人への既視感と発達障害を自称していた人

「自分はHSPです」と主張して周囲に対して要求をしてきたり、自分がすべき努力や改善を放棄してしまう人を見ていると、かつて発達障害が話題になった時に出てきた、自称ASD、自称ADHDの人たちを思い出してしまう。

ASDもADHDも、どちらも現代社会で生きづらさを抱えやすい人ではあるが、その一方で特定の分野に対する深い知識があったり、短時間で高い集中力を発揮できるなど、ある種の才能を持ち合わせている例が多く報告されている。

HSPに甘えてしまう人もまた「自分には何か特別な才能が…それも、先天的なもので大した努力もせずに人をあっと言わせるような才能を持っている、そんな優れた人間であるに違いない!」という類の感情を抱かせてしまう概念であろう。

 

言い方は悪くなるが、

  • 楽して何か人より秀でたい
  • あわよくば楽に手に入れいた才能で他人からチヤホヤされたい
  • その才能を駆使して他人をコントロールしたい&自分の好きなように生きたい

という類の、世間知らずで現実の見えていない甘えた願望を持った人が、HSPを名乗る人の中には少なからず紛れ込んでいるのではないかと思う。

才能があるのはもちろん素晴らしいが、その才能を磨くのは弛まぬ努力や鍛錬のおかげが肝心だ。特にクリエイティブ職という、才能がモノをいう世界で働いているせいもあってか、いわゆる才能があると言われている人は、それ相応に努力をしているし決して楽な生き方ではないと身を持って感じている。

そして、才能以外の仕事…例えば、営業などの交渉事やめんどくさい事務処理(確定申告)など、決してキラキラとしていない雑務をこなすことも、才能を発揮するためには欠かせないのが実情だ。

だからこそ、楽して才能のある人になりたい!という類の願望を持つ人には、どうしても「甘えてるなぁ」「いつその甘えに気がつくのだろうか?」と、冷ややかな視線を持ってしまうし、私自身甘い言葉にそそのかされないように、気を強く持たねばならないと感じている。