HSPが生きづらくなるのは単純に「めんどくさい人」だからという仮説

HSP
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身も蓋もない話だが、私は最近流行りの繊細さん(HSP)が生きづらさを抱えるのは、ただ単に第三者から見て「めんどくさい人」に過ぎないからだと考えている。

そして、「私は繊細だから…」と自分で自分のキャラを固定化させてしまうことは、言い換えれば生きづらさを抱えたままの状態で生きていく恐れがあるのではないかと思っている。

経済的にも、精神的にも、体力的にも余裕がない状況が長く続いている昨今では、えてしてめんどくさい人が人間関係の中で自然と回避されるのも無理はない。

生きづらさを克服するためには、HSPという肩書き(?)に甘えないことが大事なのではないかと感じている。

今回は、そんなHSPの生きづらさの問題について私個人の意見を述べようと思う。

 

 

社会の余裕のなさにより「めんどくさい人」の居場所がなくなった。

一昔前なら、多少性格や言動に難があるめんどくさい人であっても、地域社会や職場などの受け皿があった。経済的にもまだ余裕があり、且つ今のようにIT化や働き方の合理化が進んでいないこともあって、多少不器用な人であっても社会の一員としての居場所を確保することができた。

しかし、現在は社会全体(とくに経済面)で余裕があるとは言えない状態であるし、どちらかといえば貧困、失業、孤立、健康などの何かしらの社会不安が付きまとう。まさに、なにかと余裕の無い時代であると言っていい。

 

どこかで働くにしても新人育成に割ける労力が十分でないため、結果として即戦力を求めている職場に就くことも珍しくない。

もちろん、新人育成をするだけの余力がある職場でも、できればすぐに離職してしまうような人や、精神的に打たれ弱すぎて近い将来まともに働かなくなるリスクがないような無難な人…つまり、めんどくささを感じない人を求めていることは何も珍しくない。

また、恋愛や友達づきあいでもめんどくさい人は回避されるものだ。何かしらのハラスメントやDV、人間関係のトラブルに留まらず金銭トラブルなどに巻き込まれて失うもの諸々を想像すればこそ、プライベートな関係であっても、めんどくさい人に関わることにメリットを見いだせないのは自然である。

生活に余裕がないからこそめんどくさい人のせいで自分の時間、労力、金銭を失うことをひどく嫌がるのも無理はない。

 

あらゆる面で余裕がないからこそ、仕事でも、恋愛でも、友達関係でも、SNSの付き合いでも、とにかく「めんどくささ」そのものが大きなリスクと感じやすい世の中では、多くの人から見てめんどくさい人とみなされる人の居場所が減るのも必然的なのだ。

 

 

「あなたは純粋にめんどくさい人です」と叱ってくれる人が消えてしまった

以前書いた記事「叱ってくれる人がいない状況が招く問題について語る」でも触れたが、各種ハラスメントに対する知識が広まった影響として、叱る行為そのもののリスクが大きくなってしまったと感じている。

私の前職の上司が言ってた「今の世の中は叱ったら負け」という言葉は、まさに叱る事がどれだけ危険な行為であるかを物語っているといえよう。

そんな世知辛い世の中なのもあってか、HSPのようにめんどくさいとみなされやすい人に対して「あなたはめんどくさい性格を直さないと、高確率で人間関係で苦労するよ」と叱ってくれる人が自然と現れるようなことはまずない。

繊細で傷つきやすいという特徴があるために、些細な言葉でも針小棒大に取り上げて叱った人を加害者として仕立て上げてもおかしくない。そして叱られた本人は自分を省みることはせず、叱った人だけが割を食う状況になる。

そんな状況になるぐらいなら、めんどくさい人に関わる場面が出て来たとしても、叱るよりは放置しておくのが合理的だと考えるのも無理はないだろう。

この状況はめんどくさい人からすれば、自分のめんどくさい部分を他人にとやかく言われないので快適かもしれない。しかし、意地悪な言い方をすれば誰も自分に対して忠告をしてくれず、ずっと他者から見てめんどくさい人のままで生き続けるという残酷さもあるように感じる。

 

 

今後もますますめんどくさい人は回避されるので、めんどくさい人から脱却するのが無難

これは私の憶測だが、今後も社会や未来に対して希望を抱けない状況は続くと思う。経済力、学力、コミュ力、育ちの差などのあらゆる格差は広まり、生活での余裕を持てなくなる人は今以上に増えてもおかしくないと考えている。

そんな先行きの暗い世の中において他者から見てめんどくささを感じる人は、(仮に本人に誰かを攻撃する意図がなくても)「関わっても得するどころか損する人」とみなされやすい。結果社会の中で孤立し、生きづらさを抱えてしまうように感じる。

 

…こうして書くと、なんだか人間関係を損得やコスパで捉えており、非常に虚しい価値観のように思える。

が、しかし、私もできれば自分にとって損をするような人と関わりたくないいという気持ちがあるのは否定できない。めんどくさそうな人は可能な限りブロックなりミュートなりする。そもそも視界に入れたくないという気持ちがあるのも事実だ。

もちろん、これだけなら私は優生思想にどっぷり浸かっているただの嫌なやつである。なので、めんどくさい人を忌避すると同時に、そして同時に自分自身もまた他者から見て「めんどくさくて付き合いづらい人」にならないようにするのが、人としての”スジ”であろう。

めんどくさい部分があるのなら矯正する。矯正できれば関りを持てる人が増える。そして、先行きが暗い世知辛い世の中であっても、つまはじきにされずにうまく馴染める可能性が高まると考えている。

 

最後に余談だが、ありのままでいいよとか、人間は生きているだけで価値があるという綺麗な言葉は、おそらく誰でもどこかしらで一度は見聞きした言葉であろう。

こういった言葉は社会に余裕がある時代にはそれなりに有効であろう。余裕がなくなれば綺麗事の類として片付けられるような非力な言葉に感じてならない。