生きづらさの原因について感じることを説明する

メンタル・心理
この記事は約4分で読めます。

HSPブームが起きてからというもの、どうも生きづらさを訴える人が増えたように感じる。

…が、私はこの手の生きづらさを訴える人たちを調べていくと「その人特有の思考の癖、今までの経歴、SNSやブログの内容から見る普段見ている動画・文章のコンテンツの種類を考慮すれば、普通に生きていくことは非常に難しいだろう。何もかもがメンタルを病む要因に思えてきて、自然に生きづらくなるのも無理はないだろうな」と感じてならなかった。

今回はそんな生きづらさを抱える人に共感できない私が感じる、生きづらさの原因について個人的な見解を述べていく。

なお、内容的に非常に優しくない記述を含むので自己責任で読んでいただきたい。

 

 

あらゆることに「○○してくれない」とダダをこねてグズる

いわゆる「クレクレ」で受身の思考。周囲が理解してくれないだとか親や先生、上司や先輩が教えてくれないだとか、こんなに生きづらさに悩んでいるのに社会や政治は助けてくれない…など、自分の人生であるのにもかかわらず、どうも主体性がなく待ちの姿勢が基本となっている。

要するにダダをこねる癖があるから、自分でどうにかするとか努力するとかいう解決策を見つけられず人生に行き詰まる。傍から見れば頑張ればどうにかなる問題であっても、そもそも頑張り方がわからないとか、頑張るという発想が無いために、基本的に誰かを頼ることでしか生きていけないという「弱さ」を抱えているからこそ、生きづらさを感じるのも無理はないのだ。

なお、不思議なことに五体満足で比較的若い人でもこの傾向がある。嫌な言い方になるが、老人みたいな精神性の若者みたいである。弱々しい(と自分で思っているだけの)自分を消耗させないことに重点をおいた結果、自分で自分を苦しめている印象が強かった。

自分を大事にしすぎて人生が生きづらくなる人について説明する
何かと鬱屈した世の中の影響なのか、無駄に消耗せず、無駄に頑張らず…という具合に、自分を大事にして日々生活を送る人が増えているように感じる。 とくに、まだ元気があり余っているはずの若年層の人でも「下手に消耗しないようにしなやかに生きる」...

 

人間関係に過大な要求をするが自分から何かを差し出すことはしない

すぐ上でも述べたように基本待ちの姿勢であるため、こと人間関係においては(さりげないものであっても)何かとお願いなり要求なりすることが多い。

ただ、そうした人を頼る経験が多いためか、どうも人間関係を利用し消費するかのような姿勢が身についている。他人に感謝するとか自分から関わっている相手のお願いを受け入れ、貸し借りをゼロにする‥という関係性が無い。

つまり、人間関係に過大な要求をするが自分から何も差し出すことはせず、ただ人間関係を利用し消費する。もちろん、そんな関係では険悪な雰囲気が出来上がるのも無理はない…が、その時は自ら人間関係をリセットして、まだ利用できる見込みがある新しい関係を求めて動き出す傾向がある。

その姿はまさにイナゴ。実った畑を食い荒らしてある程度食べ尽くしたら次の畑に移動する…を繰り返す。そういう人間性の持ち主が、自然と社会から受け入れられることのほうが稀だと純粋に感じてならないのは私だけだろうか。

 

なお、余談だが人間関係自らリセットするのは、いわば振られる前に降るタイプの人間に通ずるものがあると見ている。この手の人は「自分が他人から振られた」という事実ができると自尊心がひどく傷つくので「自分から振ってやった」ということにしたいがために関係をカットする。

どちらにせよ関係が切れることには変わりはないが、「振られた」のと「振った」では精神的なダメージが比較的後者のほうが軽い。なんなら「相手を振るぐらいの主導権が自分にはある」という実感を感じさせてくれることもあるろう。

そのため、気まずい関係になったら修復することもなく辛抱することもなく、自分に素直になると言い聞かせて自分勝手とわがままを自己肯定する形で関係を切ろうとするのだ。

 

 

他責思考と逃避思考が強く自信もキャリアも何も積み上げられない

人間関係リセット癖はその癖単体でも厄介だが、もっと厄介なのは社会人ならロクなキャリアが積めない、学生なら勉強や友達・先輩後輩の関係から逃げ学力も社会性も育たない‥という状態になることだ。

また、純粋に自分のキャリアや経歴、ひいては人としての能力の向上が厳しくなるという身も蓋もない事実と向き合うだけのたくましい自尊心が無いため、他責思考と逃避思考に走る。

「生きづらいのは多様性を認めない社会のせい」「逃げちゃダメだという考えは古い。今は逃げてもいいが当たり前の時代」みたいな、ポエムや世迷言に走るばかりでますます普通の人から見て「やべーなこの人」と思われるような道を進むのだ。

なお、この手の人は自分のキャリアがボロボロであるためか、関わる人が皆劣等感の源泉のように思えたり、普通に生活を送っている人でさえ自分をマウントしてくる敵そのものだと受け取ってしまうぐらいに、認知がゆがんでいる傾向もある。

加えて、そういう認知の歪みを「生きづらいよね…わかるよ」と肯定する人に囲まれ毒され、ますます歪んだ認知を固定化させてしまう光景を何度か見ている。

 

そういう光景をみているからこそ、生きづらさを抱える人に寄り添うだとか共感を示そうというたぐいのメッセージはどうも好きになれない。

下手な善意を見せて飴を与え続けるよりは、突き放すぐらいの優しさを見せたほうが、良薬は口に苦しではないが効果があるのではないかと見ている。

 

「寄り添う」というキャッチコピーが苦手な理由を説明する
今やいたるところで「寄り添う」というキャッチコピーを目にすることが多い世の中である。商業の場や広告として用いられる表現に限らず、普通の人間関係においても「寄り添う」という言葉を見聞きすることは珍しくない。 しかし、私はどうもこの「寄り...