「優しい」と言われるのが辛かった理由を語る

メンタル・心理
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私が子供の頃、よく親や親戚、祖父母から「優しい」と言われることがあった。

もちろん「優しい」という評価自体、普通に考えれば何も自己卑下とか自己否定するようなものではないが、当時の私はどこか見放されているというか、優しいぐらいしか取り柄がないというか…なんとなくだが、あまり自分の心にとって優しくない言葉のように感じていた。

もうあれから随分たった今、当時言われた「優しい」という評価に対するモヤモヤとした辛さの正体が、なんとなくわかったような気がする。

それは、「お前は社会という競争の世界を戦える器の人間ではない」あるいは「男らしくない」と評価されている気がしたから、モヤモヤしていたのだろうと分析している。

今回は、そんな(捻じ曲がった私の)優しいと言われる事への辛さについて、個人的な見解を述べていこうと思う。

 

 

私にとって「優しい」は侮蔑のニュアンス

私の家族、親族は、それなりに学歴もあり、社会的地位もあり、いわゆる中流の家柄だった。

また、男女ともに全体的に気が強い人が多いこともあってか、当時の私のように大人しい子供は、彼らから見れば「優しい」と映ったのだろう。

加えて、実際にスポーツ経験があって体育会系気質な人も多かったことや、当時中学受験ブームになっていて親族全体に中学受験を受けさせようという雰囲気が出来ていたこともあってか、ますます私の「優しさ」が嫌な意味で目立つ状況も存在していた。

そんな、誰かや何かとの競争を当たり前のように意識していた私の家系において、私のような大人しい子供は、正直言って好まれていなかったのだと見ている。とはいえ、流石に「お前はこの家柄にふさわしくない」と言うわけにはいかず、代わりに「優しい」と言われていたのだと見ている。

しかしその「優しい」は「単なる臆病者」「争いを避けている小心者」「井の中の蛙で満足する田舎者」「女々しい男、女より弱い男」というような侮蔑のニュアンスが含まれているように感じた。

だからこそ、「優しい」という言葉を気持ちよく受け取れなかったのだと見ている。

 

 

優しさへの辛さを解消するために受験戦争に挑んだ

よくあるエッセイブログやyoutubeだと、このあたりで「男らしくなくてもいい、強くなくてもいいんだよ」とか「優しいのはあなたの個性だし、社会で役立つから捨ててはいけないよ」というような優しい言葉を投げかけるだろう。

心に優しい内容の方が共感を集められてバズるし、SNSやyoutube上での評価も上がりやすい。ましてや、炎上が起きる可能性は限りなくゼロに近いだろう。

 

しかし、そんな優しい言葉を投げかけられても、当時の私、ひいては今の私には何も響かないと思う。

むしろ、社会という競争の中で太刀打ち出来る人間に少しでも早く近づくためにも、自分の努力や能力で他人より優れた結果を出す。それこそ、生きづらさから逃れるための手段であると考えていたフシがある。

私の場合は、流れに任されて中学受験に打ち込むことになり、地元では有名だった進学校に合格できたことが、優しいと言われる事へのコンプレックスを克服できるきっかけになったと思う。

私にしてみれば、初めて自分の努力で社会的に認められる成果…それも、高倍率で多くの受験生に勝った結果として手にした成果を手にできた経験だったからこそ「自分は競争の中で太刀打ち出来る人間になれた」という類の自信が身についたのだと見ている。

もちろん、受験においては家庭の裕福さなどの環境要因もあるために、一概に私一人の実力とは言い難い。しかし、少なくともコンプレックスを克服し、精神的に強くなるため大いに役立ったと見ている。

 

 

「優しい」を肯定的に評価しない家柄を振り返ってみる

上でも触れているように、私が優しいという言葉にコンプレックスを抱くようになったのは、私の家系の影響が大きい。

しかし、この家訓というか家風みたいなものに反発しなかったこともまた、今にして思えばよかったと思っている。

ちょうど中学受験が終わった頃あたりで、ナンバーワンよりもオンリーワンのフレーズが流行ったが、あの手の類の言葉を楽しみつつも「鵜呑みにするようになってはおしまいだよ」という意見を持っている親族が多かった。(むしろだいたい同時期に放送されていた「女王の教室」に深く共感していたぐらいである)

また、ありのままでというフレーズが流行った時も、その流れを楽しみつつも「ありのままが許されるのは、ルックスが良かったり、日頃の研鑽を欠かさない人だけだよね」という意見を持っていた。

世間一般から見れば、私の家柄はなかなかに血の気が多い。こんな家柄に染まった人が、迂闊にSNSで何かを投稿すれば、繊細な心の人を刺激して拡散&大炎上するかもしれない。

 

今にして思えば、私の家系の家訓や家風は世間に堂々と発表すれば大バッシングを受けるが、一族間でのみ共有しておけば役に立つ知恵を得られる…そういう類のものだったのだろう見ている。

今やネットで検索をすればたいていの情報は見つかると言われている昨今、公開すればバッシングされる確率が高いと理解しているからこそ、あえて親族内でこの手の知恵を公開し、継承している家系の存在を無視してはいけないと感じている。その理由は「育ちが良い」と評価されることが多いからだ。