全肯定する人、行動が気持ち悪いと感じる理由について説明する

メンタル・心理
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クリエイティブ職という仕事柄、関わったことがある人の中には、自己肯定感が異様に低く何かと肯定してもらいたがっている人が少なからずいた。

そういう自信がないというか、情緒の面で不安定な人は、どうも全肯定する言葉を投げかける動画なり文章なりをありがたがる傾向がある。

以前、(怖いもの見たさで)それらを見てみた…が、率直な感想を申し上げると「脳がバグりそう」というものであった。

もちろん、全肯定的な態度やコンテンツを否定する意図はないが、今回は全肯定的な態度や言葉かけに対する違和感について、個人的な見解を述べていく。

 

「ダメな事して褒めてもらえた」という対応は狂った成功体験を植え付けてしまいかねない

全肯定を謳うコンテンツは、その名のとおりどんなことをしても肯定的に受け入れてくれる言葉やメッセージを発するのが特徴的である。それも、非常に優しく、ゆっくりとした声(or文体)である。

また、その多くがいわゆる日常生活における失敗やしくじりに対しても「○○して偉い」という、独特な芸風(と言っていいのだろうか)なのが特徴的である。

おそらく「ダメな自分でも認めてもらいたい」という願望を満たすために、この芸風になっているのだとは思うが、他人事ながら「ダメな自分でも褒めてもらえたから、真人間になるのはやめよう」と、自立する意欲をそいでしまわないのか心配になった。

つまり、「ダメなことした=評価・承認をされた=成功体験になった」という具合に、狂った成功体験による満足感を得てしまうのではないか…という危惧があるのだ。

こういう構図があるからこそ、いわゆる社会一般における「良い事をした=評価・承認をされた=成功体験になった」という、ごく一般的な考えを持っている私からすれば「脳がバグりそう」と感じたのだ。

全肯定的なコンテンツそのものや、それを楽しむ人を否定する意図はないが「こんな全肯定的なコンテンツにハマってしまったら、おそらく日常生活をまっとうに営むのに必要な人としてのバランス感覚なり社会性なりを失ってしまいそうだ」と感じてならなかった。

 

全肯定的な優しさが人間関係の基準となってしまいかねない

全肯定的なコンテンツは非常に優しい。ごく普通の人間関係がいかに冷たくて蛋白なものであるかと思えてくるくらいに、温かみのある語りかけや言葉遣いをしている。

…が、こういった温かみに触れてしまうことで、気が付けば全肯定的な優しさが基準となってしまい、普通の人間関係では満足できなくなる可能性があるのではないかとも感じた。

過剰な優しさはいわばバランスの取れた普通の優しさを、相対的に見れば優しくないものと認識させてしまう側面もある。

まるで辛党の人が辛さという名の刺激を求めるあまりに、どんな料理にでも真っ赤になるまで七味唐辛子をぶっかけて味覚音痴に陥るかのように、過剰な優しさは適度な優しさを感じる能力を鈍らせてしまいかねない…そんな危険性があるように感じてならなかった。

 

 

全肯定的な態度を取る人そのものへの疑念

最後に、肯定的な態度を取る人の態度や、その人そのものへの疑念というか、なんか危うい関係をご所望のように感じてならなかった。

その関係とはロクに働きもしないヒモ男を養う女性や、メンヘラ彼女の理不尽に耐えて理解を示す優しい彼くんのように、一見すると良い(?)関係を築いているように見えるし、余計なお節介をするのは御法度のように思える関係。

…が、分かる人には分かると思うが、これは立派な共依存の関係である。とても優しいが、決して美化してはいけない危うい関係をネット上でご所望している…そういう風に思えきて、他人事ではあるが背筋が凍るような恐ろしさに近い何かを感じた。

また、邪推も含まれるが過剰に優しくすることで「こんなに優しい自分以外の人のもとへいかないで欲しい」という、直接的ではないが、どこか他人をコントロールしたいという意図があるようにも感じた。

 

最後に全肯定的な優しさというのは、一種の蟻地獄の巣のようなものである。

よほど精神的に踏ん張る力がない人や、そもそも「よくわかんないけど、なんか本能レベルでヤバそうな優しさだから近寄らないでおこう」という判断ができない人であれば、一度ハマってしまうとなかなか抜け出せない。

むしろ、もがけばもがくほど過剰な優しさに飲み込まれてしまう厄介な優しさ…そういう、魅力的ではあるが、危険な部分もあるものだと私は考えている。