ここ数年「自己肯定感」という言葉が話題になっている。意味合いとしては自信、自分への満足感、日々の充実感、前向きな気持ちを持っていること…というものだと私は解釈している。
さて身も蓋も無い話だが、私が思うに自己肯定感はある種のだらしのなさを抱えている人にとっては、小手先の心理学のテクニックやビジネス書を読んで実践だけでどうこうなるものではないと考えている。所詮それらは気休めにしかならない。
だらしのなさという自分の欠点を直さない限りは、自己肯定感に関する問題がいつまでたっても解消されないままになってもおかしくないと考えている。
今回は、そんな自業自得による自己肯定感の低下について、個人的な見解を述べていこうと思う。
だらしない自分を自虐的に捉えても自己肯定感は身につかず、むしろ虚しくなる
私は仕事柄いわゆるクリエイターと呼ばれる人たちと関わることが多いが、彼らの多くのはいわゆる精神的に不安定な部分を持っていることが多い。
もちろん、それはある種の職業病みたいなものだとは思うが、えてして精神的に不安定な人ほど日常生活が壊滅的であることが多かった。
具体例を挙げるとすれば、
- 片付けができない(=汚部屋)し、モノをよくなくすor壊す。
- スケジュール管理ができていないので遅刻or音信普通が多い。
- 他人との約束や自分で自分に課した約束が守れない。
- 朝起きれない&夜更かし癖がある。
- 運動不足を自覚しているが、かと言ってなにか運動しているわけではない。
- 不健康あるいは不規則な食生活である。
など、いわゆるちゃんとした生活ができていないことが目立つ。
そんなだらしのない生活を自虐混じりにして肯定したところで、結局のところちゃんとした生活を送れていない事には変わりはない。
同じようにだらしのない生活をしている者同士で共感しあうことも多々あるが、意地悪な言い方をすればそれは傷の舐め合いにほかならず、自己肯定感の向上…ひいては日々の充足感や満足感を得るために役立っているようには思えない。
だらしのない自分を肯定するよりも、むしろ当たり前のことを当たり前にやれる生活ができている自分へと変わる方が、労力こそかかるかもしれないが結果として自分を肯定できるようになるのではないかと私は考えている。
自己肯定感向上を謳う情報の弱点
ネットや本などで目にする「自己肯定感を上げる方法」の情報は、大抵は「ありのままの自分を肯定する」だとか「自分を取り巻く環境を変えてみる」だとか「他人と比べない」など、いわゆる悩みを抱えている人に優しく寄り添うものが多い傾向がある。
決してこの記事のように「日々の生活態度や性格に問題がないか振り返るべき」というような、心に優しくない内容が載っていることは…まぁ無いし、普通はそんな記事を書かないものだろう。
その理由は主に
- 読者の日々の生活状況などわかるはずも無いので、なるべく当たり障りの無い耳障りの良い内容になる。
- 仮に辛辣な事を書いてしまった場合、クレームが発生して面倒事になってしまう可能性がある。
- (自己肯定感向上を謳うサービスを展開している人の場合)あまり厳しい事を書くと見込み顧客の獲得に繋がらないのはもちろんのこと、自身のイメージが悪化し商売に支障をきたしかねない。そのため、当たり障りがなく且つ読んだ人が気休め程度に気持ちよくなれるような内容に偏ってしまう。(まぁ、「あなたの生活を見直しましょう」と書いたら、自身が展開している商品・サービスを買う理由がなくなるので、口が裂けても言えないものではあるが)
というものが考えられる。
えてして悩みの相談や解決を主とした商売なり情報発信をしている人は、その立場の都合上、厳しい内容ではあるけど益となる言葉を発しづらい。苦い良薬を与えるのではなく、甘い飴を与え続けるようになってしまうのだ。
とくにネット上では些細な事で炎上してしまう。だからこそ、なるべく悩みを抱えている人の人格、生活、半生に反省を促すような鋭いツッコミを入れるような言葉ではなく、その人を取り巻く状況や環境であったり、考え方そのものを変えるように仕向ける言葉を発せざるを得なくなる。
これこそが、自己肯定感向上を謳う情報の弱点であると私は考えている。
自己肯定感ブームの行き着く先にあるものへの懸念
最後に、私は自己肯定感という言葉の便利差は認めるが、自己肯定感という概念そのもの、およびこれを向上させようとするブームについてはあまりいい印象を持っていない。
この記事の内容を見ても分かるように、ちゃんとした生活を送れていない自分を肯定することは、(大げさな表現だとは思うが)他人を堕落と破滅へ誘うようなものだと思う。一言で言えば、モラルハザードになりかねない危険性があるブームだと見ている。
また、だらしがないけどなんとかなっている状況は、えてしてそのだらしがない人を影で支えている人の存在がいるものである。
具体例を上げるとすれば、働けるのに働かず寄生するニートの我が子を養い続ける家族or親族、だらしない部下のしりぬぐいをいつもしている上司、問題ばかりを起こしている生徒の世話をする学校の先生…のような関係だ。
そんな関係に居座りながらもだらしない自分を肯定し続けるうちに、本来であれば感謝しなければならない影で支えてくれる人たちの存在を「あって当然のもの」と思うようになってしまう。
つまり、自分がどれだけ周囲に支えられているのかということに気が付けない、虚しくさもしい人間になってしまうのではないか…という不安があるからこそ、私は自己肯定感ブームに対してあまりいい印象を持てないのだ。(まぁ、これは私の考えすぎかもしれないが…)