叱られたい、怒られたいと感じる心理についての考察

メンタル・心理
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まずはじめに、この記事での「叱られたい」は恋愛や異性関係におけるものではないし、断じてそういうシチュエーションにおける感情や心理を指すものでもない。

あくまでも、日常生活や仕事の中でふとした時に湧き上がる自然な感情のひとつであるとご理解いただきたい。

今回は、そんな「叱られたい」「怒られたい」と感じてしまう心理について、個人的な見解と考察を述べていく。

 

 

叱られたい、怒られたいと感じる理由

「叱られる=認められる」という考えによるもの

叱られることもなく、いつも褒めてもらえる、良くしてもらえる環境というものは、猜疑心の強い人であったり自責的な考えを持つ人にとっては「周囲の人たちは、本当に自分のことを認めているのだろうか?」という感情を抱かせてしまうことがある。

つまり「この人たちは、自分のことをちゃんと認めていないし見ていない、適当に褒めちぎっているだけで自分とちゃんと向き合おうとはしていないのでは?」という感情をもたらすことがあるのだ。

そういった疑い深い人からすれば、褒めてくる人よりもむしろ自分に厳しい意見や態度を見せてくれる人の方が、認められていると感じる傾向がある。

ただ表層的に褒めるのとは違い、しっかりとそして的確に叱るとなれば相手の事を深く知らなければならない。

つまり、叱ってくれる人というのはそれだけ自分という存在を見てくれており、考えてくれており、そして自分と向き合ってくれている人であると感じる。だからこそ、ふと自分の承認欲求が満たされないと感じた時に「叱られたい」と感じるのだ。

 

現状の自分を客観的に評価されたいという願望としての「叱られたい」

上からの続きになるが、自分のことを褒める人ばかりの環境というのは、向上心の強い人からすれば居心地の悪さを感じることがある。

自分はまだまだ褒めてもらえるほど自分を磨いているとは言い難い。自分にはまだ、改善すべき箇所があるはずだが、それを指摘してくれる人は今の環境にはおらず、非常にもどかしい気持ちで悩んでいる…という状況にある人からすれば、自分では気づかない欠点、弱点、改善点をビシッと指摘してくれる人は、まさにモヤモヤを解消してくれる救世主のように映るのだ。

 

ちなみに、この手の人は(私の持論になるが)調子のいいときであっても油断せず、地に足をつけた考えができるしっかり者という印象が強い。仕事でも勉強でもさほど苦労はしないし、多少の苦労であっても乗り越えるだけの精神的なタフさやストレス耐性も見られる。

しかし、しっかり者だと思われやすいからこそ「あの人はわざわざ指摘なんかしなくても、自分一人で問題発見&解決できるよね」と周囲から思われやすく、ほうっておくと指導や教育が行き届かなくなりやすい存在とも言える。

(若干話が逸れてる気はするが)仕事や学業の成績のいい人が人知れず孤独を抱えてしまい、どことなく調子を崩してしまっている場合は、人間関係において適切なコミュニケーションが行われていない可能性について考えてみた方がいいだろう。

 

 

一種の懐かしさを味わう経験としての「叱られたい」

かつて私がガチンコの体育会系の部活に所属して、それこそ毎日のように監督から怒号を飛ばされていた経験があるためか、私にとって叱られることは懐かしい思い出の一種のように感じているフシがある。

よくある「体育会系」を題材を扱っているバラエティ番組にある、(おふざけとしての)シゴキや(茶番としての)叱責のシーンを見ても「自分もこれに近い経験があったなぁ…懐かしいなぁ…」という、ノスタルジーに浸る事がある。

そういう懐かしい思い出を呼び覚ましてくれるからこそ、ついふとした時に「叱られたいなぁ(=ノスタルジーを味わいたいなぁ)」と思うのではないかと自己分析している。

 

人恋しさを埋める目的として「叱られたい」

人間、年を重ねるにつれて叱られることは減る。また、関わる人の中にも「叱るようなことをするぐらいなら距離を置く方が賢い」と経験から学んで実行する人が増えていくものである。

自分に厳しい目を向ける人がいない環境は快適ではある。しかし、同時にどこか寂しさというか、自分に対して真剣に向き合ってくれる人がいない…という感じの、人恋しさを覚えるものでもある。

そういった孤独感を解消したいという願望が「叱られたい」「怒られたい」という気持ちの根底に有る…という考えもできる。

たいていの人は子供のからは叱る大人、怒鳴る大人は嫌いなものだろう。しかし、そういう人が全くいないというのは、人によっては孤独同様に非常に耐え難いものなのだろう。