自分で自分のことを真面目な人だと思い込んでいる人の中には、時々だが真面目であるという強い自己認識が災いして、人間関係の中で問題を起こしてしまう人がいる。
そして「自分=真面目」という認識があるために、問題を起こしている自分の人格や性格に難があるという考えに至らず、余計に問題を大きくしてしまう。結果、人間関係から孤立したり、社会の中で生きていけなくなってしまうことが起きてしまうのだ。
今回は、そんな人の生態について個人的な見解を述べてみる。
自分では真面目だと思っているが、他人から見てぜんぜん真面目ではない自分に自覚できずにしくじってしまう
身も蓋もないが、自分で自分を真面目だと思っている人の中には、周囲から見てぜんぜん真面目ではない人がいる。
真面目と呼ぶにはあまりにもぐうたらで、ケアレスミスが多く、対人能力やストレス耐性が低く…というように、周囲の評価と自分の評価が大きく異なっているケースがある。
いわゆる「真面目系クズ」と表現される人がこのいい例である。
ただし、自分で自分をクズだと自覚できておらず、正真正銘の真面目だと感じている。そのため、よもや自分に反省点や改善点があるという発想には至らない。これこそが、自覚している真面目系クズとは異なる点あり、非常に厄介な点である。
…まぁ、実際に自分で自分を真面目だと評価している人にとって「あなたは自分が思っているほど真面目ではないですよ」と言われるのは、決して気持ちがいいものではないし、つい反発したくなるような優しくない言葉だと思う。
しかし、「反発したくなるのは、ひょっとしたら図星を突かれているかもしれない…」と思えれば、今自分が抱えている人間関係の悩みであったり、自分の生きづらさを改善できる可能性があると私は考えている。つい「うっ」となってしまうような突き刺さるような言葉にこそ、自分を成長させる要素があるものだ。
強く真面目だと思い込むからこそ、自分の怠惰な一面やずる賢い一面を認められずにメンタルが不安定になる
上からの続きになるが、自分を真面目だと考えている人の中には、自分という人間のことを単純に考えすぎているケースがある。
自分を含め、人間(とくに心や性格の部分)は決して単純なものではなく、非常に複雑で、曖昧で、多面的でいて、それでいて簡単に理解や説明ができるものではないという事に気づかない。
「自分=真面目」と単純な図式で考えてしまうが、実際に生活していく中で真面目とは言い難い自分の一面を自覚する場面ででてくる。
その時に「自分=真面目」という図式が崩れるような気がして強い精神的なストレスを感じてしまう…という現象が、自分で自分を真面目だと強く思い込む人には見られるのだ。
ちなみにだが、真面目に限らず自分で自分を「優しい」と思い込む人にも同様の現象が見られることが多い。
優しいという自己認識があるからこそ、自分の狡猾な部分や自己中心的な部分を自覚するような場面になるとひどく取り乱したり、必死に自分を優しい人間であるかのように見せるために過度な自己アピールをする。
そうすることで精神的なストレスを和らげようとしているのだとは思うが、根本の自分を単純に捉えすぎている部分が残っているために、メンタルが不安定な状態は引き続き残っているとも言える。
真面目なのではなく、ただ人生経験が少なく、あらゆる魅力に乏しい人間という事実に気づかないまま歳を重ねる
最後に、真面目な自分を高く評価しているように見えるが、実際のところはとくに褒めるような人生を送って来ているわけでもなく、何かに積極的に打ち込んでいるわけでもなく、毎日をなんとなくぼんやりと過ごしているだけの空虚な人生を歩んでいる人の中にも、自分で自分を真面目だと感じている人が見られる。
つまり、傍から見れば人としての魅力に欠けているのに「自分には真面目という長所がある」と感じているケースだ。
ハングリー精神や情熱…というような真面目という言葉と相性は悪いが、こと就職活動や受験、ひいては人生を充実させていくためには大事な部分がまるでなく、本当に毎日をただなんとなく無気力に暮らしている人は、このケースに当てはまる傾向が強い。
まぁ、これは恋愛や仕事で「あなたは真面目ですね(=とくに褒めるべきところがありませんね)」と言われてきた人には、思い当たるフシが多いと思うケースであろう。
たしかに真面目であることは大事だし、仕事でも真面目な部分が評価されることがあるのは否定しない。
しかし、そこで言われている「真面目」が、本当に実体のあるものなのか…ただ単に、とくに褒めるべきところがなく、魅力もない人に対してかろうじて言える「真面目」という言葉でないかについては、時折考えて見てもいいのではないかと思う。